日本大百科全書(ニッポニカ) 「田令」の意味・わかりやすい解説
田令
でんりょう
(1)令の篇目(へんもく)の一つ。「養老(ようろう)令」(30編)にあっては、戸令と賦役令の間、第九番目に配列されており、全37か条よりなっている。田の面積の単位から始まり、口分田(くぶんでん)や功田(こうでん)・職田(しきでん)・位田(いでん)など各種の田、あるいは荒廃田、空閑地に至る土地の規定、用益法などについて定めたもの。田租(でんそ)に関する規定がこの田令に含まれていることが注目される。母法たる唐令では、租の賦課規準や徴収法は賦役令において定められているからである。これは、日本古代律令制の下では、租は課役とは考えられていなかったことを示すものである。この点にかかわって、唐令においては、受田資格と租調負担とが密接な関連を有しているのに対して、わが国ではこの両者の関連性が薄いことも彼我の相違点である。(2)訓は「たつかい」。律令体制確立以前、皇室の直轄地である屯倉(みやけ)の経営にあたるために、中央政府から派遣された官。初見は『日本書紀』欽明(きんめい)天皇17年(556)七月条に、備前(びぜん)児嶋(こじま)郡(岡山県児島郡)に設置された屯倉の田令に、葛城山田直瑞子(かつらぎのやまだのあたいみずこ)が任命されたとあるもの。『続日本紀(しょくにほんぎ)』大宝(たいほう)元年(701)四月条に「田領をやめて国司の巡検に委す」とあるから、田領が田令と同じものであるとすれば、大宝令施行まで存続したうえ、その任務が国司に引き継がれたとみることができよう。なお欽明天皇30年(569)には、吉備(きび)白猪(しらい)屯倉に派遣された膽津(いつ)が、田部の戸籍を定めた功によって白猪史(ふひと)の姓を与えられるとともに、葛城山田直瑞子の副官として、田令に任命されている。
[福岡猛志]
『井上光貞他編『律令』(1976・岩波書店)』