王辰爾 (おうしんに)
6世紀中ごろの百済系帰化人で船氏の祖。生没年不詳。〈船王後(ふねのおうご)墓誌〉には〈船氏中祖王智仁首〉とある。《日本書紀》欽明14年7月条には大臣の蘇我稲目が勅を奉じて王辰爾を遣わし,船賦(ふねのみつき)を数えさせ,船長(ふねのつかさ)とし,船史の氏姓を与えたとあり,同敏達1年5月条には,高句麗の表疏を東西の諸史がみな読みえなかったとき,辰爾がひとり読み解いて賞賛され,天皇の近侍を命じられたとある。同じころに弟の牛も津史,甥の胆津(いつ)も白猪屯倉(しらいのみやけ)の功により白猪史となっているから,彼らは渡来して間もない帰化人だったのであろう。この一族はみな河内国丹比郡に住み,船氏の居地は同郡野中郷(大阪府羽曳野市野々上付近)で,王仁(わに)の子孫である西文(かわちのふみ)氏の居地ときわめて近接していた。はるか下った790年(延暦9)の百済王仁貞らの上表文では,辰爾らの祖は百済の貴須王で,その孫の辰孫王が応神朝に渡来したという西文氏と酷似した系譜を述べており,《新撰姓氏録》もそれに従っているが,それほど古い帰化人かどうかは疑わしい。
執筆者:関 晃
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王辰爾
おうしんに
6世紀後半の百済系渡来人。朝廷に属し、文筆・記録の任務に就いたフミヒト(フヒト・史部)の一員で、船史(ふなのふひと)の祖にあたる。『日本書紀』によれば、欽明朝に船賦(船税)を数え録した功により、船長(ふねのつかさ)に任ぜられ、船史の氏姓を賜わった。572年(敏達天皇1)には誰も読むことのできなかった高句麗の国書を読解し、天皇と大臣の蘇我馬子に称賛されたとある。「戊辰年」(668年、天智天皇7)の「船王後(ふなのおうご)墓誌」は、彼の名を王智仁(ちに)につくり、船王後の祖父とする。弟の牛(うし)は津史、甥の胆津(いつ)は白猪(しらい)史の祖とされ、『続日本紀』は船・津・白猪3氏を百済の貴須(きす)王の孫、辰孫(しんそん)王の後裔とする。この3氏は河内国丹比(たじひ)郡野中(のなか)郷(現大阪府羽曳野市)を本拠としたフミヒトの一族で、奈良・平安期に至るまで文人・学者・外交官など、多くの逸材を出している。『日本書紀』の王辰爾の話は、船氏のそのような特性を踏まえてつくられた始祖伝承であろう。
[加藤謙吉]
『加藤謙吉著『大和政権とフミヒト制』(2002・吉川弘文館)』
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王辰爾
生年:生没年不詳
6世紀中ごろの百済からの渡来人。「船首王後墓誌」には「船氏の中祖・王智仁首」とある。『続日本紀』延暦9(790)年条の百済王仁貞の上表文には百済の貴須王の孫王孫王が応神天皇のときに渡来し,その曾孫の午定君の3子のひとりに辰爾の名がみえ,この時から葛井,船,津の3氏に分かれたという。『日本書紀』欽明14(553)年条には蘇我稲目の下で王辰爾が船の賦を数え録し,その功で船長となり船氏の氏姓を与えられたとする。敏達1(572)年条によると高句麗の使がもたらした鳥の羽に書かれた国書を王辰爾のみがよく解読できたので天皇に近侍するようになったという。これらの伝承は船史氏が西文氏の王仁の伝説をまねて作ったもので,実際は王辰爾の代に新しく渡来した中国南朝系の百済人であろう。
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
王辰爾 おう-しんに
?-? 6世紀中ごろの百済(くだら)(朝鮮)系渡来人。
船(ふね)氏の祖。欽明(きんめい)天皇14年(553)蘇我稲目(そがの-いなめ)の命で,船賦(ふねのみつぎ)をかぞえ記録したことにより,船の長(つかさ)になり,船史(ふねのふびと)の氏姓をあたえられた。敏達(びだつ)天皇元年(572)高句麗(こうくり)(朝鮮)からのカラスの羽にかかれた国書を読みとき,天皇の近侍となった。
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世界大百科事典(旧版)内の王辰爾の言及
【船王後墓誌】より
…この地は,王後の長兄刀羅古(とらこ)の墓所でもあった。王後の祖父としてみえる王智仁は,《日本書紀》などに船氏の祖とされている[王辰爾]とみられる。王辰爾とその一族は,船,白猪,津の諸氏に分かれ,6世紀後半以降,大和朝廷の中・下級官人として活躍する渡来系氏族で,王後もまた,そのような官歴をたどった一人であったといえる。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」