白石喜之助(読み)しらいし・きのすけ

朝日日本歴史人物事典 「白石喜之助」の解説

白石喜之助

没年:昭和17.2.9(1942)
生年:明治3.8.15(1870.9.10)
日本メソヂスト教会牧師,日露戦争に対する非戦論者。鹿児島の薬種問屋の3男。明治25(1892)年同志社神学生として三重県津地方で夏期伝道に従事。その後中退して,同28年明治学院神学科を卒業,同30年按手礼を受け日本基督新潟教会(東中通教会)に赴任,同33年メソヂスト教会に移り,静岡県掛川教会牧師となり,以後浜松,高田,市川,甲府,サンフランシスコ,青山,名古屋中央,札幌,沼津,浜松,金沢などの各教会を牧し,昭和10(1935)年に引退。その間,静岡時代より『六合雑誌』(キリスト教の立場に立つ総合雑誌。1880年創刊,1921年終刊),『護教』(メソヂスト教会の機関誌。1891年に創刊され,1942年に『基督教世界』に併合)に投稿,明治37年にロシアの作家L.N.トルストイ影響を受け日露戦争で非戦論を主張した「余が非戦論」を『護教』に発表した。その前の同34年社会主義協会に入会,社会主義行商伝道など社会主義の啓蒙宣伝を支援した田舎牧師のひとり。甲府教会時代の明治43年にはトルストイと書簡をかわし,日露戦後の惨状をふまえ信仰思想を深めていく。大正9(1920)年に渡米,サンフランシスコ日本人教会牧師として,排日移民問題が激化するなかで,日本人移民の教化と伝道に尽力し,同14年に帰国した。白石の非戦論は,社会主義の眼で戦争をとらえ,生活の場でイエスの愛の実践をなす福音の証として主張されたものである。田舎牧師としての実践をなし,「愛他」の信仰をとおし大きな感化を残した。<著作>『古代印度哲学』『基督教の宇宙観及人生観』『基督教読本』『女性基督教読本』<参考文献>沢田泰伸『白石喜之助の「非戦」の思想』(『山梨英和短期大学紀要』11号),杉山金夫「遠州の非戦論者 牧師白石喜之助」(『静岡県近代史研究』3号),杉井六郎「反戦思想とトルストイヤン」(『明治期キリスト教の研究』)

(大濱徹也)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

20世紀日本人名事典 「白石喜之助」の解説

白石 喜之助
シライシ キノスケ

明治〜昭和期の牧師 メソジスト教会金沢部長。



生年
明治3年8月15日(1870年)

没年
昭和17(1942)年2月9日

出生地
薩摩国(鹿児島県)

学歴〔年〕
同志社中退,明治学院神学科〔明治28年〕卒

経歴
はじめ同志社に学び、明治25年夏期伝道で三重県津地方に赴くが、間もなく中退。28年明治学院神学科を卒業し、30年に按手礼を受けて日本基督教会の牧師として新潟に赴任。33年メソジスト派に移籍し、静岡県掛川教会牧師を皮切りに浜松・市川・甲府・サンフランシスコ・青山・名古屋・沼津・浜松高町・金沢の各教会の牧師を歴任して昭和10年に退職した。その間、大正9年から14年までのサンフランシスコ教会在任中にはアメリカにおける排日運動高揚の最中で伝道活動に尽力し、山梨・静岡・金沢では同派の支部長を務めた。一方、明治34年社会主義協会に入会し、伝道の傍ら社会主義思想の啓蒙・宣伝に努めた。またロシアの文豪トルストイの影響で平和運動にも挺身、37年の日露戦争に際してはメソジスト派機関誌「護教」に「余が非戦論」を著し、社会主義者としての視点とキリスト者的な愛他思想から非戦の論陣を張った。43年にはトルストイと文通。著書に「古代印度哲学」「基督教の宇宙観及人生観」「基督教読本」「女性基督教読本」など多数ある」。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「白石喜之助」の解説

白石喜之助 しらいし-きのすけ

1870-1942 明治-昭和時代前期の牧師。
明治3年8月15日生まれ。33年日本メソジスト教会の牧師となる。34年社会主義協会にくわわり,社会主義の普及・宣伝活動にあたる。トルストイの影響をうけ,37年「予が非戦論」を「護教」に発表,日露戦争に反対した。昭和17年2月9日死去。73歳。薩摩(さつま)(鹿児島県)出身。明治学院卒。著作に「基督(キリスト)教読本」など。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

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