平和のために世界を挙げて軍備を撤廃し,戦争の絶滅を主張する考え方。一般に,〈非戦論〉とは日露戦争時に現れた,反戦運動のことを指す。運動としての非戦論は,1900年中国で起こった義和団の蜂起に対し日本が出兵した際,幸徳秋水が〈非戦争主義〉(《万朝報》1900年8月7日)を書いて平和を説き非戦争を唱えたことに始まる。非戦論はその後,日露戦争開戦の危機の中で,人道主義的立場(黒岩涙香の《万朝報》,島田三郎の《毎日新聞》など),キリスト教的立場(内村鑑三,柏木義円,救世軍など),社会主義的立場(幸徳,堺利彦,木下尚江ら)から展開された。03年10月に《万朝報》が開戦論に転じると《毎日新聞》も11月に開戦論に転じた。堺,幸徳,内村は万朝報社を退社し,11月堺,幸徳は平民社を設立するとともに,週刊新聞《平民新聞》を創刊,一貫して非戦論を説いた。内村も《聖書之研究》《神戸クロニクル》などを中心に非戦論を主張した。また,安部磯雄らの社会主義協会も,03年10月に〈社会主義非戦論大演説会〉を行うなどの活動を展開していった。とくに幸徳が《平民新聞》(1904年3月13日)に書いた《与露国社会党書》は欧米各国の社会党に大きな反響を呼び,各国社会党の機関紙は競ってこれを転載した。また,ロシア社会民主党もその機関紙《イスクラ》に回答文を載せ,〈今我等の最も重大に感ずるは,日本の同志が我等に送りたる書中に於て現したる一致聯合の精神に在り,我等は満腹の同情を彼等に呈す〉と賛意を示した。そして,04年8月第二インターナショナル第6回大会に出席した片山潜とロシア代表プレハーノフは反戦を誓いあって握手を交わした。
また,トルストイが《ロンドン・タイムズ》(1904年6月27日)に寄稿した非戦論,《爾曹悔改めよ》は《平民新聞》(1904年8月7日)に〈トルストイ翁の日露戦争論〉として全文訳載され,日本国内でも大きな反響を呼んだ。《平民新聞》は次号の社説に,トルストイの個人主義的非戦論に対する社会主義的立場における非戦論との相違を説き,戦争の原因は〈人々真個の宗教を喪失せるが為〉ではなく,〈列国経済的競争の激甚なるに在り〉とした。しかし,海老名弾正をはじめ多くの人々は,〈トルストイは露西亜の予言者なるも日本の予言者にあらず〉とし,〈何故に日本は満州に於て露西亜と戦ふや〉,いったい〈戦争には不義残暴ならざる者もあり〉というような,日露戦争を義戦とする主戦論であった。このように主戦論が大勢を占めるなかで,わずかな勢力ながらも論陣を張っていた社会主義陣営も,11月16日には社会主義協会が解散させられ,《平民新聞》も05年1月29日に廃刊となった。後継紙として,白柳秀湖,加藤時次郎らの《直言》が,日本社会主義の中央機関紙としての役割を担った。しかし,非戦論の立場を堅持していたものの,紙上で非戦論を活発に展開することはなかった。そこには,日露戦争が終結に近づいていたという状況もあった。
執筆者:高峰 慧
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日露戦争時に唱えられた開戦反対論。厭戦論も含めれば,幸徳秋水・堺利彦・片山潜・西川光二郎ら社会主義者,内村鑑三・柏木義円らキリスト教徒,歌人与謝野晶子らが代表的人物。幸徳・堺・内村らは新聞「万朝報」のちに「平民新聞」を拠点として非戦論を唱え,与謝野晶子は「君死にたまふこと勿れ」と題する歌をよんだ。しかし非戦論は少数,主戦論は圧倒的に多数で,日本の大半は主戦論に飲みこまれた。
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…日露戦争開始の危機にあたり,非戦論を核心として結成された社会主義結社。日清戦争後,日本の朝鮮進出と軍事力の強化の中で日露関係は切迫し,対露同志会や七博士の対露強硬意見書(七博士建白事件)が口火となり各新聞論調も挙国一致・主戦に傾いていった。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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