目名村
めなむら
明治初年(同二年八月から同六年の間)から明治四二年(一九〇九)までの村。静内郡の南西部に位置する。東は静内川(染退川)に臨み、南西は上下方村に、北は遠仏村に接し、西に新冠牧場(御料牧場)が連なる(「状況報文」など)。近世の史料にメナブト、ヘツウトル(「廻浦日記」など)とみえる地などからなっていた。「東蝦夷地場所大概書」によると、ケバウから静内川を二〇町さかのぼったところにあるメナブトは「夷家弐軒」、さらにメナブトより二〇町上流のヘツウトルは「夷家六軒」であった。なお板本「東蝦夷日誌」に「金丁文四郎はメナブトに住し、山丁百数人をして稼がし」とあり、一七世紀半ば静内川の漁労権をめぐってカモクタイン、シャクシャイン方とオニビシ方が争った際、調停役を勤めた金掘文四郎の小屋が当地にあったとされる。
目名村
めなむら
[現在地名]東通村目名
田名部川の支流目名川の下流付近の丘陵端に位置する。東は蒲野沢村、西は大利村、田名部村(現むつ市)、南は田屋村に接する。集落の南、目名川左岸の比高二〇〇メートルほどの丘陵地に目名館跡がある。二重の空堀がめぐらされ、土師器片を出土。伝承によれば大同(八〇六―八一〇)の頃高館采女なる者が居住したといい、「南部諸城の研究」では蝦夷館とする。目名館の西の向野、北の沢畑などにも館跡があり、空堀跡が残る。
目名村
めなむら
[現在地名]檜山郡厚沢部町字美和
近世から明治三九年(一九〇六)までの村。現厚沢部町の西端に位置し、西は土場村(現江差町)、南は伏木戸村・田沢村(現同上)。目名川が厚沢部川下流南岸に合流する平坦地に立地する。当村は天正年間(一五七三―九二)若狭国の六衛門と金蔵が来住し、檜山稼と農業に従事したのに始まるという(明治一九年「青江理事官諮問回答書」市立函館図書館蔵)。元禄郷帳に「目名沢村」とみえ、天保郷帳には目名村と同村枝村として土橋村がみえる。「福山秘府」には女名村とみえ、造立年不明の稲荷社をあげる。「蝦夷日誌」(二編)には「目名は此地沢ニ有村の惣名也。(中略)人家所々に散落する也。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
Sponserd by 