真福寺村(読み)しんぷくじむら

日本歴史地名大系 「真福寺村」の解説

真福寺村
しんぷくじむら

[現在地名]岐阜市長良葵町ながらあおいちよう長良校前町ながらこうぜんちよう長良杉乃町ながらすぎのちよう長良若葉町ながらわかばちよう長良東郷町ながらとうごうちよう長良白妙町ながらしろたえちよう長良桜井町ながらさくらいちよう長良有明町ながらありあけちよう長良大前町ながらおおまえちよう長良宮口町ながらみやぐちちよう長良南陽町ながらなんようちよう長良金碧町ながらきんぺきちよう長良有楽町ながらゆうらくちよう長良高嶺町ながらたかみねちよう長良大路ながらおおじ長良奥郷ながらおくごう長良一楽ながらいちらく長良井田ながらいだ長良子正賀ながらこしようが長良田中前ながらたなかまえ長良田中ながらたなか長良友瀬ながらともせ長良西野前ながらにしのまえ長良春田ながらはるた長良福泉ながらふくいずみ長良西山前ながらにしやままえ長良海用町ながらかいようちよう長良幸和町ながらこうわちよう長良小松町ながらこまつちよう長良校文町ながらこうぶんちよう長良真生町ながらしんせいちよう長良城西町ながらしろにしちよう長良仙田町ながらせんだまち長良東町ながらひがしまち長良福江町ながらふくえちよう長良宮路町ながらみやじちよう長良森町ながらもりまち長良竜東町ながらりゆうとうちよう長良ながら

上福光かみふくみつ村の北隣に位置。北東部は百々どどヶ峰(三四一・五メートル)を主峰とする山地、南西部は平地で、集落は山麓の洞に広がり、南西部に支郷天神てんじん、南に新屋敷しんやしきがある。


真福寺村
しんぷくじむら

[現在地名]美原町真福寺

丹南郡に属し、大保だいほ村の東にある。中高野街道が集落の西から入り、中央で直角に折れて南に抜ける。東南部に溜池が集中し、東隣の丹上たんじよう村の溜池地帯とあいまって方形の溜池がモザイクのように入組む。村名は当地にあった行基開基と伝える真福寺に由来。真福寺遺跡からは弥生時代のものと思われる石鏃・スクレーパーが出土。村中央の南北の溝に沿って川辺かわべりの小字名が四ヵ所並ぶ。建暦元年(一二一一)一二月二四日付充行処分状写(荻野三七彦氏所蔵「杉園稿本」所収)に「在河内国丹南郡黒山郷河辺里廿三坪一段」とみえ、当地は中世丹南郡黒山くろやま郷に属したと推定される。同処分状写には「右件田地者、故父広階延忠先祖相伝之所領也」とあり、広階延忠は河内国の鋳物師を組織した広階氏との関係が考えられる。


真福寺村
しんぷくじむら

[現在地名]岡崎市真福寺町

古代寺院である天台宗真福寺を中心にして発展した山間の村。村域内を矢作川支流の真福寺川が西に向かって流れ、川沿いの里道沿いに集落が立地。東は恵田えた村、西は村・岩津いわづ村、南はたき村・西阿知和にしあちわ村、北は奥山田おくやまだ村と各々山で接する。中世、乙見おとみ庄に属すという。

慶長六年(一六〇一)に三五四石余は真福寺領となり明治に至る。残り五四石は同年に幕府領になり、寛永九年(一六三二)に刈谷藩領に編入。慶安二年(一六四九)に再び幕府領、天和元年(一六八一)に鳥羽藩領、享保一〇年(一七二五)に幕府領にもどる。


真福寺村
しんぷくじむら

[現在地名]岩槻市真福寺・城南じようなん一―四丁目

柏崎かしわざき村の北東に位置し、北は岩槻城下町に続く。村名はかつて所在した寺院名に由来すると思われるが、「風土記稿」に「今ハ寺蹟モ伝ヘス」とある。宝暦六年(一七五六)まで岩槻藩領、以後は幕府領。田園簿に村名がみえ、高は田方一七七石余・畑方三七八石余。延宝八年(一六八〇)の岩付領内村名石高家数人数寄帳(吉田家文書)によると家数一九(本百姓一三・水呑五・寺一)、人数一〇〇、岩槻藩の地方支配は下郷しもごう筋に所属。貞享三年(一六八六)の岩槻藩領郷村高帳では高五五五石余、小物成は野銭永九一一文、見取場畑五町四反余。


真福寺村
しんぷくじむら

[現在地名]西区新福寺しんぷくじ町・笹塚ささづか

庄内川の南岸にある。東を名塚なづか村と接する。新福寺村とも書かれる。織田信雄分限帳に「百拾貫文 新ふく寺の内 かちしき共ニ 斎藤彦六」「百拾貫文 新ふく寺の内 かちしき共ニ 真野(ママ)」とある。寛文一一年(一六七一)の家数三三、人数一四二(寛文覚書)。「徇行記」によれば、田二三町四反余・畑四町二反余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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