矢吹慶輝(読み)ヤブキ ケイキ

20世紀日本人名事典 「矢吹慶輝」の解説

矢吹 慶輝
ヤブキ ケイキ

明治〜昭和期の宗教学者,社会事業教育家 大正大学教授。



生年
明治12(1879)年2月13日

没年
昭和14(1939)年6月10日

出生地
福島県信夫郡飯坂

学歴〔年〕
東京帝大文科大学哲学科〔明治42年〕卒,東京帝大大学院

学位〔年〕
文学博士〔大正12年〕

主な受賞名〔年〕
帝国学士院賞恩賜賞〔大正14年〕「三階教之研究

経歴
福島県桑折の浄土宗無能寺住職矢吹両慶について得度。明治43年宗教大学(現・大正大学)教授となり、大正2年姉崎正治の助手として渡米、のち欧州各国に留学し、6年帰国。7年渡辺海旭らとともに社会事業教育の先駆けとなる宗教大の社会事業研究室を開設、初代主任教授となる。8年東京帝大講師、11年勤労児童施設三輪学院を創設、13年東京帝大助教授、14年東京市社会局長、15年大正大教授に就任。他に東洋大、日本女子大、法政大などで宗教学や社会事業を講じる。中央アジア古写経断片の検索を行い、敦煌学の道を拓いた。生涯住職にならなかったが、戒律による仏教のたてなおしを願い、社会問題の解決に連帯共同の思想を唱え、大乗仏教に基づく“社会的仏教”を提唱した。著書に「阿弥陀仏の研究」「近代宗教思想論考」など多数

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「矢吹慶輝」の解説

矢吹慶輝 やぶき-けいき

1879-1939 大正-昭和時代前期の宗教学者,社会事業家。
明治12年2月13日生まれ。宗教大(現大正大)教授となり,欧米に留学。敦煌(とんこう)出土仏典を研究,大正14年「三階教之研究」で学士院恩賜賞。勤労児童のための三輪(みのわ)学院を創設し,東京市社会局長をつとめた。昭和14年6月10日死去。61歳。福島県出身。東京帝大卒。旧姓佐藤。号は隈渓。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

367日誕生日大事典 「矢吹慶輝」の解説

矢吹 慶輝 (やぶき けいき)

生年月日:1879年2月13日
明治時代-昭和時代の宗教学者;社会事業家。宗教大学教授
1939年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の矢吹慶輝の言及

【三階教】より

… 三階教は信行が住持となった長安南郊の真寂寺(しんじやくじ)(唐代には化度寺(けどじ)と改む)を中心に,唐代中期まで北中国で栄えたが,一つには無尽蔵行によって寄進された財物が化度寺の無尽蔵院や各地の三階教寺院の功徳所(くどくじよ)に集められ,その資本運用にからんで僧団の腐敗が進行したこと,二つには信行に始まる激しい他宗派批判によって仏教界全体から異端視され,政府からも5度におよぶ弾圧を受けたことによって,8世紀中ごろから勢力を失い,地蔵信仰などと習合しながら民間に溶けこんでいった。その姿の復元と解明は,今世紀に入って発見された敦煌文書などから矢吹慶輝によって完遂されたものである。【川勝 義雄】。…

【敦煌学】より

…これら書名にみられるように,当時の学者たちの関心の的は古佚書の写本に置かれていた。仏典はおもに日本の学者が研究したが,やはり《大蔵経》に収めない蔵外仏典を探し出すことに重点が置かれ,矢吹慶輝《三階教之研究》(1925),同《鳴沙余韻》(1930)などの大著が世に出された。30年代になると,ようやく古文書も研究されるようになり,ことに那波利貞の寺院文書を用いた諸論文,仁井田陞《唐宋法律文書の研究》(1937)などは,これまで典籍資料のみに頼っていた中国史研究に大きく貢献した。…

※「矢吹慶輝」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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