敦煌(読み)トンコウ

  • Dūnhuáng
  • とんこう / トゥンホワン
  • とんこう〔トンクワウ〕
  • 敦煌 Dūn huáng
  • 敦煌(とんこう)
  • 敦煌/燉煌

百科事典マイペディアの解説

中国,甘粛省北西部,党河のオアシスにある都市。別名は沙州。前2世紀,漢が西域経営のため敦煌郡を置いて以来,中国北西角の軍事・交通の要衝となる。南東の敦煌莫高窟(ばっこうくつ)には4―14世紀の壁画,彫塑などが残されている。南には鳴沙山,月牙泉があり,北西に玉門関,南西に陽関の遺跡がある。
→関連項目スタイン橘瑞超ペリオ変文羅振玉

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デジタル大辞泉プラスの解説

1988年公開の日本映画。監督脚本佐藤純彌原作井上靖、脚本:吉田剛。出演西田敏行、佐藤浩市、中川安奈、新藤栄作、原田大二郎、三田佳子、柄本明ほか。第12回日本アカデミー賞最優秀作品賞、最優秀監督賞、最優秀主演男優賞(西田敏行)受賞。第31回ブルーリボン賞作品賞受賞。

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世界大百科事典 第2版の解説

中国,甘粛省北西部の酒泉地区に属する市。人口12万(1994)。河西通廊あるいは河西走廊とよばれる地帯の西端に位置するオアシスの町で,シルクロードの中国側の出入口に当たる最重要の地であった。1984年になって近郊に飛行場が完成したが,それまでは鉄道が通っていないため,およそ200kmはなれた蘭新線(蘭州ウルムチ)の柳園駅から車で行くか,幹線自動車道路の甘新公路上の安西県から分岐する安敦公路で西に120kmの行程を踏んだ。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

中国、甘粛(かんしゅく)省にある県級市。酒泉(しゅせん)地級市に属する。人口14万1969(2012)。内陸アジアの乾燥地帯に属し、ゴビ(土漠)中のオアシスにある。歴史上、瓜州(かしゅう)、沙州(さしゅう)、燉煌ともよばれた。市内を蘭新(らんしん)線、敦煌線(柳溝(りゅうこう)―敦煌)が通るほか、市街近郊には敦煌空港がある。近年、風力発電産業が盛ん。

[池田 温・編集部 2017年6月20日]

歴史

前漢の武帝(在位前141~前87)時代に、匈奴(きょうど)に対抗し漢の軍隊が黄河(こうが)の西方に進出したとき、駐屯地となり敦煌郡が設けられたのに始まる。兵士の屯田により農地が開け、漢の西域(せいいき)進出の基地となり、玉門関、陽関の両関が置かれ辺防の要衝となった。ここは中国から中央アジアを経て西方世界に達するシルク・ロードの要地で通商の拠点となり、諸族雑居しイラン系のソグド商人の集落もできた。

 西晋(せいしん)時代には、著名な将軍で能書の誉れ高い索靖(さくせい)(239―303)や、敦煌菩薩(ぼさつ)とうたわれた訳経僧竺法護(じくほうご)を生み、文化水準も内地並みに高まった。戦乱の五胡(ごこ)十六国時代に、河西(かせい)の地は相対的に安定し、前涼(ぜんりょう)、北涼、西涼など諸朝を通じ敦煌は発展期を迎え、一時西涼の国都ともなり、著名な石窟(せっくつ)寺院(千仏洞=莫高窟(ばっこうくつ))が開削され、仏教文化の中心地として栄えた。5世紀初め北魏(ほくぎ)に征服され多くの有力豪族が代都に移されるに及び、やや衰退したが、北朝から隋(ずい)・唐にかけてシルク・ロードの要衝として東西文化の交流に一定の役割を果たした。8世紀盛唐には、13郷約6000戸、3万余の人口を擁し、莫高窟に北・南の両大仏が造顕され、絢爛(けんらん)たる浄土図などの壁画で飾られた。ところが安史の乱により唐の勢力は後退し、吐蕃(とばん)(チベット)に数十年間占領されてのち、848年土豪の張議潮(799―872)が吐蕃の内紛に乗じこれを追い、唐に帰順して帰義軍節度使に任ぜられた。

 以後、唐、五代、北宋(ほくそう)を通じおおむね中原(ちゅうげん)の正朔(せいさく)を奉じたとはいえ、通交は不安定で独立地方政権に近く、張氏、曹氏が節度使を世襲し、遼(りょう)、甘州回鶻(かいこつ)(ウイグル)、于闐(うてん)(ホータン)など諸族政権と複雑な関係を取り結び、東西交易仲介の利を図った。11世紀なかばにタングートの支配下に陥り、ついでモンゴル、吐魯番(トゥルファン)のウイグルの勢力下にあってのち、18世紀に至り雍正(ようせい)年間(1723~1735)に清(しん)朝の管轄するところとなり、ふたたび多数の漢人が入植し、千仏洞で名高い観光都市となった。

 20世紀初め、石窟の一室に封蔵されていた数万点の古写本断巻、幡幢(ばんとう)などが発見された。これがM・A・スタインやペリオによりイギリス、フランスに持ち出され、にわかに敦煌資料の貴重な価値が喧伝(けんでん)され、「敦煌学」とよばれる新研究領域が開かれ、文献学者や美術史家の注目の的となった。新中国は敦煌研究院(旧、文物研究所)を設け石窟の修復保存と研究に努めている。

[池田 温 2017年6月20日]

世界遺産の登録

2014年、ユネスコ(国連教育科学文化機関)により「シルクロード:長安―天山(てんざん)回廊の交易路網」の構成資産として、玉門関、懸泉置(けんせんち)遺跡などが世界遺産の文化遺産に登録された(世界文化遺産)。

[編集部 2017年6月20日]

『榎一雄編『講座敦煌1 敦煌の自然と現状』 『講座敦煌2 敦煌の歴史』(1980・大東出版社)』『池田温編『講座敦煌3 敦煌の社会』(1980・大東出版社)』

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旺文社世界史事典 三訂版の解説

中国甘粛省西端にあるオアシス都市
前漢の武帝が郡を置いてから西域への要衝となった。五胡十六国時代には独立国家を形成したが,これ以後漢民族と西域諸民族の間で争奪がくりかえされた。南東約15㎞の地に,3〜4世紀から13〜14世紀にわたって建造された千仏洞 (せんぶつどう) (石窟寺院)があり,各時代にわたる仏像・壁画などの仏教美術が保存されている。20世紀初頭にイギリス人スタイン,フランス人ペリオによって1石窟から10世紀以前と思われる写経数千巻が発見され,仏教史研究に貢献した。

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世界大百科事典内の敦煌の言及

【浄土教美術】より

…また善導は浄土信仰の基本的教義書《観無量寿経疏》《観念法門》などを著したほか,生前に300幅もの浄土変を作ったという。しかしこれらの遺品は中原にはなく,西辺の敦煌莫高窟の壁画によってその盛況をうかがいうるにすぎない。現在同地には隋から宋にいたるおびただしい数の浄土変があり,その変遷を展望することができる。…

【浄土変相】より

…中国では唐代に盛んに造られ,善導は浄土変相を見て浄土教に帰し,のちにはみずから300余舗の浄土変相を描き,ひとにも制作をすすめたという。敦煌には浄土窟とよばれる多数の石窟があり,約230の西方浄土変をはじめ,およそ70の東方薬師変と弥勒変の壁画が残されているし,スタイン探検隊は20余の浄土変相の絵画を持ち帰った。日本でも,法隆寺金堂に描かれていた四仏浄土変をはじめ,当麻寺の《当麻曼荼羅》など多数の浄土変相が残されている。…

※「敦煌」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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