矢尾村(読み)やびむら

日本歴史地名大系 「矢尾村」の解説

矢尾村
やびむら

[現在地名]西郷町西町にしまち港町みなとまち

現西郷町の南東端に位置し、西郷浦の深い入江に臨んで集落が営まれる。八尾とも記す。慶長期(一五九六―一六一五)まで目貫めぬき村・護国寺ごこくじ村と合せて西郷東分と称していたが、元和期(一六一五―二四)に矢尾・目貫に分れ、田畑は入交じり、山海は区別なしという(増補隠州記)。当村とこの目貫村、および史料上は東郷村の内ともみえる宇屋うや村を総称して西郷と称し、それは中世以来の呼称を継いだものと考えられる。「隠州視聴合紀」には八尾町・目貫町・宇屋町とあり、これを三ヶ所と称し、この辺りを西郷とよぶとし、「板屋・茅屋檐を并べ、士農工商群居せり」と記している。三ヶ所すなわち西郷町であったと考えられる。ただし村方支配上は三ヶ所は単独に扱われた。

正保国絵図に矢尾村とみえる。貞享五年(一六八八)の「増補隠州記」によれば、田一七九石余・一五町四反余、畑二五石余・一二町一反余。小物成は竈役面判銀(以下断りのない限り同銀)三五匁・漁請役五五匁七分・核苧一貫二〇目役二匁七分・牛皮一枚役丁銀二匁五分、家数一〇五(百姓三一・間脇七四)のうち御役目屋敷三五、人数五五五、牛六一・馬四三、弓一・鎗二・鉄砲七。隠岐判官為清とその子が居城した跡地を宮地とする八幡宮のほか天満天神が鎮座、真言宗光恩こうおん寺・真宗蓮光れんこう寺がある。慶長期に堀尾氏が入国、短期間で西郷に奉行屋敷が移建され、蔵・番所(遠見番所)・船小屋・会所・牢屋が併設されていた。


矢尾村
やおむら

[現在地名]早島町矢尾

早島村の北方山寄りに位置。「八尾」とも書いた。「備中誌」に当地方は「古しへ万寿庄といひし時代古田なり、平地は皆秀家時代岡豊前守新開せしなり」とあり、古くからの村であった。宇喜多秀家は「八尾」のうち一〇〇石を長原菅作へ与えている(「宇喜多秀家宛行状」黄薇古簡集)。寛永九年(一六三二)より岡山藩池田光政領となったと思われる(寛政重修諸家譜)

寛永備中国絵図に矢尾村とみえ、高一二八石余。


矢尾村
やびむら

[現在地名]出雲市矢尾町

高浜たかはま川右岸にあり、東は日下くさか村、南は里方さとがた村。延宝七年(一六七九)山方やまがた村が矢尾村・日下村に分れたという。永泉寺記録(高浜村誌)に藪村とみえる。「雲陽大数録」に高六六〇石とある。宝暦四年(一七五四)の神門郡北方万指出帳(比布智神社文書)では東西一一町六間・南北六町一五間、田三〇町五反・畑九町五反、家数九七・人数四七三、牛二九・馬一三、紺屋一・大工一・木挽一・鍛冶屋一・桶屋一、猟鉄砲一、楮一千九三五株と記す。


矢尾村
やおむら

[現在地名]匹見町落合おちあい

落合川上流域に位置し、西は蔦木つたぎ村、北は津茂つも(現美都町)。江戸時代初期に道谷みちたに村から分村して成立し、正保四年(一六四七)の古田領郷帳では高七七石余、有高七一石余で免三ツ三分。楮・蕎麦などを栽培。矢尾川左岸の一ノ谷・二ノ谷・三ノ谷といわれる所には鑪跡がある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

プラチナキャリア

年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...

プラチナキャリアの用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android