藪村(読み)やぶむら

日本歴史地名大系 「藪村」の解説

藪村
やぶむら

[現在地名]東海市養父やぶ

知多半島北部の砂堆地帯に、南北に走る西浦にしうら街道に沿って発達。北は横須賀よこすか町方、東北は横須賀村に接する。「尾陽雑記」に「むかし藪村の辺に才秀たる童あり」「此こほりを智多とは名づけたりとなん申す」とあるから、古くから藪といっていたらしい。戦国期には野夫やぶ(織田系図)と書かれた。

平治二年(一一六〇)源義朝が野間のま(現知多郡美浜町)で謀殺されたとき、愛人小玉姫が後を追ってこの地で子供を残して自刃した、と伝える。戦国期には花井惣五郎が藪城(砦)主であったが、家臣の不意討にあい、のち信長の弟信治が周囲の寺々を焼払って入り、城主となった。村中央部に城之内しろのうち北堀畑きたほりばた南堀畑みなみほりばたという小字がある。


藪村
やぶむら

[現在地名]市原市藪

皆吉みなよし村の南東養老ようろう川左岸に位置する。元禄郷帳に村名がみえ、高三三三石余。寛政五年(一七九三)の上総国村高帳では高三四二石余で家数三六、旗本山本領。幕末まで同氏領。明和五年(一七六八)年番名主の取計らいをめぐって百姓四名が訴えたが、吟味中に勘定奉行に駆込訴えを行ったところ不埒として三〇日の手鎖とされた(御仕置例類集)


藪村
やぶむら

[現在地名]藪塚本町藪塚

大間々おおまま扇状地の中央にあり、東は藪塚村、南は山神やまのかみ村、西は本町ほんまち村。寛文年間(一六六一―七三)笠懸野かさかけの開発により藪塚村地先に成立した新田村。寛文一一年の岡上開拓絵図(片山家蔵)には「藪塚村新田場」とみえ、八万二千六八二坪。元禄一〇年(一六九七)笠懸野新田絵図(同家蔵)には藪塚新田とあり、南東に三軒、南北に走る道沿い両側に一九軒が描かれる。元禄郷帳では「屋婦村」と記される。江戸後期の御改革組合村高帳では藪塚村に含まれる。


藪村
やぶむら

[現在地名]東条町藪

東条川中流域左岸の丘陵地に位置する。文永二年(一二六五)一一月三日の住吉神領杣山四至并造替諸役差定書(大川瀬住吉神社文書)吉井よしい庄の南限として、「南ハヤフタニヤマ」とある「ヤフ」は藪のことと思われる。慶長九年(一六〇四)池田輝政の家臣渡瀬淡路守(一千石取)に当村の高一一一石余などが与えられた(「池田輝政家臣地方知行状」鳥取県立博物館蔵)正保郷帳では田方八六石余・畠方四石余、幕府領


藪村
やぶむら

[現在地名]湯原町豊栄とよさか

旭川右岸に位置し、向湯原むこうゆばら村・茅森かやもり村・目地めじ村に囲まれる。東方は対岸下湯原しもゆばら村。正保郷帳によれば田高一一石余・畑高一二石余、元禄一〇年(一六九七)美作国郡村高辻帳によれば改出高八石余・開高一斗余。元禄初頭の家数四・人数二四(作陽誌)


藪村
やぶむら

[現在地名]日田市東有田ひがしありた 月出町つきでまち

月出山かんと村の南西に位置し、府内・日田往還が通る。同往還の馬原まばる(現天瀬町)境の釜割は難所であったという。正保郷帳に村名がみえ、田高一〇二石余・畑高五二石余で、刃連ゆきい郷に属した。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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