石内村(読み)いしうちむら

日本歴史地名大系 「石内村」の解説

石内村
いしうちむら

[現在地名]五日市町石内・五月が丘さつきがおか一―五丁目

上小深川かみこぶかわ村の東に位置し、北は沼田ぬまたとも大塚おおつか両村(現広島市安佐南区)。村の大部分は山地で、ほぼ中央を南西流する石内川とその支流域に開けた谷状の平地に集落が展開する。「芸藩通志」は「昔は石道村と称す、谷間の道、石多きが故に名とす、されば内道うちみち訓の転ずるなるべし」と記す。村内は半坂はんざか平岩ひらいわ鍛冶計かじけ(梶毛)なか笹里ささり(笹利)こおりなどの地区に分れる。近接諸村に数多くの飛地がある。郡は寺田てらだ村に接する飛地で、古代の佐伯郡衙の所在地にかかわる地名と考えられる。また字原田はらだを「延喜式」(兵部省)の「大町駅」、「和名抄」の「大町郷」の地に比定する説もある。

正治元年(一一九九)一二月日付の伊都岐島社政所解(新出厳島文書)や鎌倉時代の安芸国衙領注進状(田所文書)などに松丸まつまる福永ふくなが万力まんりきなど当地内の地名がみえ、国衙領であったが、別結解・御供田などの形式で事実上厳島神社領化が進んでいたと考えられる。嘉禎四年(一二三八)四月一七日付の伊都岐島社廻廊員数注進状案(新出厳島文書)によれば、回廊造立分のうちに「石道分」二間、同未造立分のうちに一間と記される。応永四年(一三九七)六月日付の厳島社領注進状(巻子本厳島文書)には「安芸国厳島社領所々事」の佐東さとう郡内神領のうちに「己斐村付、石道」とみえ、この記載形式によれば、あるいはこの頃己斐こい(現広島市西区)の内に含まれたのであろうか。宝徳二年(一四五〇)四月日付の厳島社神主藤原教親申状案(同文書)によれば、銀山かなやま(跡地は現安佐南区)に拠した武田氏の押領分に当地も含まれている。永正年間(一五〇四―二一)から大内氏の勢力が伸張し、天文二三年(一五五四)から毛利氏の支配となった。慶長年間(一五九六―一六一五)と思われる欠年の厳島社社家内侍給地等付立(野坂文書)の「厳島棚守領付立之事」にみえる「松丸村」は、前記当地内の松丸と考えられる。


石内村
いしうちむら

[現在地名]湯原町本庄ほんじよう 石内

鉄山かねやま川中流域に位置し、左岸では東は安井やすい村、西は見明戸みあけど村下分、右岸では東は小谷こだに村、西は大月おおつき村。正保郷帳によれば田高三五石余・畑高九石、元禄一〇年(一六九七)美作国郡村高辻帳によれば改出高二二石余・開高二石余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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