松丸村(読み)まつまるむら

日本歴史地名大系 「松丸村」の解説

松丸村
まつまるむら

[現在地名]松野町松丸

吉野よしの川中流域の盆地状の村。東は吉野村、西は次郎丸じろうまる村に接する。

慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)宇和郡の項に「松丸村 柴山茅山、川有」と村名がみえる。宇和島藩領。天和元年(一六八一)の「宇和旧記」には松丸町とあり、中世末期に川後森かごのもり城主川原淵殿の城下町であった名残をとどめる。同書にみえる慶長一〇年(一六〇五)の藤堂高虎の制札に

<資料は省略されています>

とある。この史料の「当町」とあるのが松丸町で、松丸町には楽市楽座が実施され、また土佐藩領との境界の要衝として重視されていたことがわかる。


松丸村
まつまるむら

[現在地名]大野市松丸

唐谷からたに川下流域に位置し、西は九頭竜くずりゆう川の河食崖。坂谷さかたに道沿いの農村で、北ははん村。伝心寺記録(同寺文書)には、蓮如の廻国布教以前は「井郷村」と唱えたとある。

慶長三年(一五九八)七月二〇日の越前大野郡之内松丸御検地帳(多田家文書「坂谷五箇村誌」所収)によると田方三二町六反・畠方一町一反余、村高六九三・一二石、うち一五石が荒地で、他に五斗山年貢とあり、名請人は四三人。


松丸村
まつまるむら

[現在地名]夷隅町松丸

国吉島くによししま村の北東に位置する。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に村名がみえ、高一千四六六石。寛永二年(一六二五)知行宛行状には松丸郷とあり、郷内一千四六六石余が旗本永見氏に与えられた。幕末まで同領(旧高旧領取調帳)


松丸村
まつまるむら

[現在地名]築城町松丸

深野ふかの村の南、上香楽かみごうらく村の南西に位置し、城井きい川左岸平地に立地する。元和八年人畜改帳では家数五八・人数一二一(うち百姓二〇・名子二三)、牛一五・馬六。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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