石瀬村(読み)いしぜむら

日本歴史地名大系 「石瀬村」の解説

石瀬村
いしぜむら

[現在地名]岩室村石瀬

多宝たほう山の東麓にあり、東を川が北へ流れる。北は橋本はしもと村、南東久保田くぼた村。北国街道浜通が南北に通り、西へ間瀬まぜ街道が分れる。文永五年(一二六八)一一月の色部行忍(公長)願文写(「古案記録草案」所収文書)に「石瀬之霊場」とみえるのはこの地か。行忍は同地に三重の塔婆を造立している。大永七年(一五二七)八月二日の弥彦神社領検地日記(高橋文書)には「いしせノ又五郎」とみえる。近世は初め長岡藩領で、元和四年(一六一八)の同藩知行目録では高二三三石五斗余。寛永一一年(一六三四)与板藩領となる。元禄一五年(一七〇二)幕府領となり、享保九年―元文五年(一七二四―四〇)まで新発田藩預所、文化一二年(一八一五)以降与板藩領。慶長一九年―万治元年(一六一四―五八)の間と推定される本願寺宣如懇志請取状(浄専寺蔵)によれば、舟越ふなこし村などの講中とともに当村の講中も京都東本願寺へ懇志銀子二枚を上納している。

石瀬村
いしぜむら

[現在地名]高岡市石瀬

庄川下流左岸、野村新のむらしん村の北方に位置。この一帯はかつて石瀬野岩瀬野いわせのとよばれ、「万葉集」巻一九には「石瀬野」を詠んだ大伴家持の長歌や「伊波世野いわせのに秋萩凌ぎ馬並めて初鷹猟だに為ずや別れむ」の歌がある。正保郷帳では高五五七石余、田方三三町六反余・畑方三町四反余、新田高三七八石余。万治二年(一六五九)一七石の畑直しが行われた(「高免等書上帳」折橋家文書)

石瀬村
いしぜむら

[現在地名]常滑市金山かなやま

北は小倉おぐら村、東は前山まえやま村に接する。飛地の丘陵(大根山)が南の宮山みややま前山多屋たやの各村の間にある。「寛文覚書」によれば、概高一四八石余、田五町余・畑五町一反九畝余、家数二五、人数一二六。元禄以前に付家老竹腰山城守の給知があった。「知多郡之記」(蓬左文庫蔵)には「鍛冶職 三州江相起」とある。

石瀬村
いしのせむら

[現在地名]宇土市石小路いしこうじ町・ほん

東・北は松原まつばら村・江部えべ村、西と南は宇土町に接する。慶長国絵図に村名がみえ、近世は松山手永に属した。正保郷帳では田方三五五石五斗余・畠方一四石六斗余。「国誌」に「里俗石ノ瀬町ト云」とある。古図(「宇土市史」所収)によれば、宇土本五丁目の眼鏡橋を渡ったところに石瀬町があり、西側に石瀬小路がある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報