石那田村(読み)いしなたむら

日本歴史地名大系 「石那田村」の解説

石那田村
いしなたむら

[現在地名]宇都宮市石那田町

東と南は徳次郎とくじら村、北東部を日光街道が貫通し、中央部を川が南流する。応永二二年(一四一五)の文書の裏に書かれた年月日未詳の諸役配分注文案(輪王寺文書)に「三口壱貫三百石那田郷」とみえ、日光輪王寺常行堂領であった。年未詳一一月一八日の権律師昌宣書状(同文書)によれば、石那田郷の百姓が供米の納入をめぐって逃散したので昌宣が説得して帰村させた。しかし供米を出す下地がないので、訴訟が頻発し、今に続いているが、今年からは必ず納入するように顕尺坊へ意見をしたところであると見衆へ伝えている。天正四年(一五七六)三月二日、宇都宮国綱は鹿沼の壬生徳雪斎を攻めるため家臣石南田いしなた城主 小池大内蔵助」ら二千六三〇余騎を率いて多気たげ城へ移った(那須記)


石那田村
いしなだむら

[現在地名]白鷹町荒砥甲あらとこう

馬場ばば村の北西、最上川右岸に位置し、戦国期は荒砥城近世は荒砥御役屋を中心に町場が形成され、置賜地方北部、最上川右岸の行政・商業の中心地で、隣接する馬場村と併せて荒砥(町)と称された。近世初期の邑鑑に村名がみえ、高九七六石余、免三ツ四分、家数七〇(うち役家一三、肝煎・小走二)・人数三六六、役木として漆・桑・紅花青苧をあげる。蒲生氏高目録帳では村柄は上。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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