荒砥城(読み)あらとじょう

日本の城がわかる事典 「荒砥城」の解説

あらとじょう【荒砥城】

長野県千曲市(旧更級郡上山田町)の上山田温泉の温泉街の裏手にあった山城(やまじろ)。戦国大名の村上氏が居城としていた葛尾城(埴科郡坂城町)とは千曲川をはさんで対岸に位置している。平安時代にこの地に住み着いた豪族の山田氏が1524年(大永4)に築城したと伝わっているが、築城時期および築城者ともくわしくは不明である。1552年(天文21)、甲斐の武田晴信(武田信玄)は村上吉清の葛尾城を攻めたが、このころ、荒砥城は村上氏の属将の屋代政国の居城となっていた。翌1553年(天文22)、政国が塩崎城主の塩崎氏らとともに武田方に内応したことにより、義清は葛尾城を捨てて越後長尾景虎(のちの上杉謙信)のもとに逃れ、葛尾城は落城した。義清はその後旧領を奪還したものの、籠城した塩田城(上田市)を攻められて、城を捨て行方不明になっている。その後、景虎が信濃に出陣し、第一次川中島の合戦(布施の戦いあるいは八幡の戦い)が起こる。長尾勢は武田勢を破り、屋代氏の荒砥城を占領した。武田氏滅亡後、荒砥城主の屋代秀正(政国の養子)は上杉景勝に属し、上杉氏の海津城(長野市、のちの松代城)の城代山浦景国(村上国清、義清の嫡男)の配下になった。1583年(天正11)、徳川家康が秀正に更級郡の安堵を密約したことから上杉氏と離反して荒砥城に立て籠もったが、上杉景勝勢に攻められて落城し、秀正は家康のもとに敗走した(のちに屋代氏は徳川家の旗本になった)。その後、間もなく荒砥城は廃城となった。一方、武田氏に属した政国は1561年(享禄4)の第四次川中島の戦いで戦死したとも、武田氏滅亡後に織田信長に恭順し森長可の与力となったともいわれる。城跡は現在、史跡公園として整備されている。曲輪(くるわ)の遺構が残っているほか、各曲輪に石垣が復元され、模擬建物が建っている。二の曲輪の建物の中には荒砥城の模型と荒砥城に関するビデオ上映が用意されている。しなの鉄道の戸倉駅から徒歩約20分。◇山田城、砥沢城とも呼ばれる。

出典 講談社日本の城がわかる事典について 情報

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