神代・神代村(読み)こうじろ・こうじろむら

日本歴史地名大系 「神代・神代村」の解説

神代・神代村
こうじろ・こうじろむら

高来たかく郡にある地名中世より近世に至る地名であるが、古代の神代郷、鎌倉期の髪白かみしろ庄の名称を継承する。近世には肥前佐賀藩神代鍋島領の地方支配の行政区となった。

〔中世〕

史料上は南北朝期からみえるが、当地名を称した神代氏は「肥前国風土記」彼杵郡条にみえる神代直の系譜を引くともいわれ、正慶二年(一三三三)鎮西探題への襲撃に際して同氏は少弐氏のもとで参陣したとされる(歴代鎮西要略)。観応三年(一三五二)三月五日の安富泰治軍忠状(深江文書)に「神代」とみえ、足利直冬が派遣した小俣氏連の軍勢が当地を通過している。正平二一年(一三六六)肥後広福こうふく(現熊本県玉名市)の大智は「高来東郷神代村内本覚禅寺」など三ヵ寺を禅古に譲っているが(同年一二月九日「大智譲状」広福寺文書)、この大智に帰依した有馬直澄は大智を高来郡に招請して伽藍敷地などを寄進しているので、当地は南朝方であったという直澄の勢力下にあったと考えられる。やまうえ曹洞禅本覚ほんがく(現廃寺)は本学寺とも記され(正平一一年か、七月一六日「兵庫助光信書状」同文書)、「神代の如法道場」であったが、火難にあったうえ、犬王丸の母が三ヵ年も寺領を押え取るなどの振舞があったとして公方からの計らいを求めている(正平一九年二月二三日「大智契状」同文書)。応安六年(一三七三)九州探題の今川了俊が高来郡方面に派遣した子息満範の率いる軍勢が神代に陣を構えている(同年九月日「深堀時広軍忠状」深堀文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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