禅興寺跡
ぜんこうじあと
[現在地名]鎌倉市山ノ内
明月院の西にあった臨済宗寺院。足利氏満在判の明月院絵図(明月院蔵)左隅に「禅興寺」とある。山号福源山。開山蘭渓道隆、開基北条時宗。明治初めに廃寺となる。「本朝高僧伝」蘭渓道隆伝に「平副帥時宗開禅興寺而居」とあり、創建時期は文永五、六年(一二六八、六九)頃と考えられる。「東海一
集」密林住禅興江湖疏并序に、北条時頼はわが国禅宗興隆の権輿であり、また「曰建長曰禅興、皆是相公植冥福々地也」とあることから、当寺が時頼とも関係があることがうかがえる。「風土記稿」は時頼開基の最明寺旧跡を時宗が再興したものという。
元亨三年(一三二三)北条貞時十三年忌供養には僧衆九二人が参加(「北条貞時十三年忌供養記」県史二)。これは建長寺・円覚寺・寿福寺・浄智寺に次ぐもので、「不同小々叢林也」(東海一
集)といわれるように、当寺がかなりの大寺であったことを思わせる。
禅興寺跡
ぜんこうじあと
[現在地名]泉佐野市長滝
長滝の北部、紀州街道(熊野街道)沿いにあった大寺。「行基年譜」によると神護景雲元年(七六七)新羅国大臣恵基が行基とともに開創したという。「泉州志」は新羅金麻蘇邇の開基とする。また所伝として豊浦大臣(蘇我稲目)が豊浦寺(跡地は現奈良県高市郡明日香村)を建立したとき、禅興寺をその別院となし、寺領をも押収したので、住僧が怒り一心に祈念したところ、三昼夜にわたり大地震が起こり、豊浦寺の寺僧が数多く死んだ。そこで豊浦大臣もいったん押収した寺領などを返却。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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