長滝村(読み)ながたきむら

日本歴史地名大系 「長滝村」の解説

長滝村
ながたきむら

[現在地名]鶴岡市砂谷いさごだに 長滝

大山おおやま川の支流少連寺しようれんじ川上流域、母狩ほかり山の西中腹にある。西は砂谷村。村名は七つの滝が連鎖していることにちなむといわれる(筆濃余理)。村の開創について金峯万年草(金峯神社文書)に「往昔新田脇屋の氏族此処に陰れ住給ふよし」とあるが、現在はむしろ「筆濃余理」の「長滝村ハ佐藤庄司ガ後裔也ト云」とする説が一般的である。文治年間(一一八五―九〇)陸奥国信夫しのぶ(現福島県)の領主佐藤庄司基治(晴)夫人と孫が田川氏を頼り、小波渡こばとから当村に隠れ開発主となったと伝えられる(小波渡開発記念碑)


長滝村
ながたきむら

[現在地名]白鳥町長滝

二日町ふつかまち村の北、長良川右岸の段丘平野とそれに連なる越美山脈に立地。白川しらかわ街道沿いの長滝ちようりゆう寺を中心に集落がある。中世山田やまだ庄が成立、同庄かみ保域内に比定される。村名は長滝寺に由来する。村域の大部分は同寺領であったと考えられ、当村は諸役御免の除地であった。江戸時代には長滝寺をさして長滝村と記す例もみられる(「荘厳講記録」長滝寺蔵)慶長郷帳には長瀬(滝か)村とみえ、村高一〇九石余。


長滝村
ながたきむら

[現在地名]辰口町長滝

莇生あんぞ村の東、能美丘陵北部に位置。集落の東方には「加賀志徴」に「山の絶頂より七段に下る滝なる故、七滝と呼べり」と記される景勝地ななッ滝がある。地名はこの滝に由来し、七滝村が変化したともいう。天文五年(一五三六)閏一〇月、長滝村など五ヵ所の幕府料所代官となった幕府政所執事伊勢貞孝は、加賀国に対する本願寺の影響力を頼み、年貢納入の口添えを依頼、これを受けて本願寺一〇世証如は在地へ奉書を下している(「天文日記」同月九日条・一一日条)


長滝村
ながたきむら

[現在地名]伊自良村長滝

かまたに山山麓と伊自良川沿いに若干の耕地を有する。東は平井ひらい村、北は葛原くずはら(現美山町)。霊峰と仰がれる釜ヶ谷山や甘南美かんなび寺参詣で、古来より賑った。もと伊自良村のうちで、明治大学刑事博物館本元禄郷帳に高二一八石余とあり、尾張藩領。江戸時代初期は土岐九左衛門領であったが、元和元年(一六一五)替地により尾張藩領となる(明暦覚書)。長滝虚空蔵堂の慶安五年(一六五二)の鰐口に「長滝住人村橋久兵衛」とある。


長滝村
ながたきむら

[現在地名]泉佐野市長滝

佐野村の南に位置し、村の北西部を紀州街道(熊野街道)が通る。中世は東北院領長滝庄の地。建武五年(一三三八)南朝方が熊取くまとり(現泉南郡熊取町)・佐野や当地を攻撃したが、その時当地の土豪中原(日根または日根野とも)盛治が対戦、追払っている(同年七月一六日「日根野盛治軍忠状」日根文書)。「政基公旅引付」文亀元年(一五〇一)九月八日条によると当地にあった守護使の政所を、根来ねごろ(現和歌山県那賀郡岩出町)の衆徒が焼打ちしている。天正一三年(一五八五)三月、豊臣秀吉が紀州攻撃をした時、当地の土豪・有力農民のなかには畠中はたけなか(現貝塚市)に籠って抵抗した者もいる(根来軍記)


長滝村
ながたきむら

[現在地名]天理市長滝村

福住村西南方の渓谷村落。三箇院家抄(内閣文庫蔵大乗院文書)に「七十七長滝庄 四丁二反」とあるので、中世には興福寺大乗院領荘園長滝庄があったと考えられる。慶長郷帳には「長瀬村」とあり村高一六七・四一石。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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