朝日日本歴史人物事典 「里見義弘」の解説
里見義弘
生年:大永5(1525)
戦国時代の武将。義尭の嫡子。通称太郎。父義尭と共に房総における里見氏大名領国制の全盛期を築き上げる。対外的には,当初親上杉氏の姿勢をとり,古河公方の継承問題に介入して北条氏,およびその擁立する足利義氏と対立した。永禄7(1564)年の第2次国府台の戦では敗戦を喫したものの,同10年の三船山の戦での勝利を機に北条氏勢力を房総の地より駆逐し,越相(越後,相模)同盟が結ばれるや上杉氏と決別,政治的自立を果たした。元亀3(1572)年には「副将軍」として鶴ケ谷八幡宮修造を主催。またこのころ,理想の為政者たらんとの意志を表明する「鳳凰の印判」を創始した。しかし天正2(1574)年に父義尭が病死するや内外に問題が噴出し,後継者問題も解決しないまま病死。<参考文献>滝川恒昭『房総里見氏の印判について』
(滝川恒昭)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報