明月院(読み)メイゲツイン

デジタル大辞泉 「明月院」の意味・読み・例文・類語

めいげつ‐いん〔‐ヰン〕【明月院】

神奈川県鎌倉市にある臨済宗建長寺派の寺。山号は、福源山。もと最明寺塔頭たっちゅうで、上杉憲方創建アジサイ名所で、あじさい寺と通称される。

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精選版 日本国語大辞典 「明月院」の意味・読み・例文・類語

めいげつ‐いん‥ヰン【明月院】

  1. 神奈川県鎌倉市山ノ内にある臨済宗建長寺派の寺。山号は福源山。明徳元年(一三九〇)開創。開基は上杉憲方。開山は密室守厳。もと禅興寺の塔頭(たっちゅう)で当院だけが残存。境内紫陽花(あじさい)が多く、あじさい寺と称される。

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日本歴史地名大系 「明月院」の解説

明月院
めいげついん

[現在地名]鎌倉市山ノ内

円覚寺と建長寺の間を北東に走る明月谷の南裾にある。臨済宗建長寺派、本尊如意輪観音。古くは禅興ぜんこう寺の塔頭であった。「鎌倉志」は上杉憲方開基、密室守厳開山というが、皇国地誌は山内首藤経俊の開基とする。当院には「明月院殿天樹合公大禅定門」という位牌が二基あり、一つは天和二年(一六八二)作で憲方位牌としてその没年を刻み、一つはおそらく前者より後に作られたと思われるが、この法名を平治元年(一一五九)に没した山内首藤俊通のものとし、その子経俊が父菩提のため当院を建立した旨を記す。すでに江戸時代には開基について混乱がみられる。現在当院では山内首藤経俊開基、上杉憲方中興としている。

永徳三年(一三八三)一二月一一日の関東公方足利氏満書状(県史三)によると、上杉憲方は山内やまのうち岩瀬いわせ郷を「明月庵」に寄進している。至徳二年(一三八五)一〇月二五日に足利氏満は憲方の申請により常陸国信太しだ庄内古来ふるく(現茨城県新治郡桜村)矢作やはぎ郷・中村なかむら(同土浦市)などを寄進(「関東公方足利氏満寺領寄進状」同書)

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「明月院」の意味・わかりやすい解説

明月院
めいげついん

神奈川県鎌倉市山之内にある臨済(りんざい)宗建長寺派の寺。福源山と号する。本尊は如意輪観音(にょいりんかんのん)。もと北条時頼(ほうじょうときより)の建てた最明(さいみょう)寺の塔頭(たっちゅう)の一つで、上杉憲方(うえすぎのりかた)によって創建され、密室守厳(みっしつしゅごん)(大覚寺派)を開山とするが、寺伝では山内首藤(やまのうちすどう)経俊が、平治(へいじ)の乱(1159)で没した父俊道の菩提(ぼだい)のため創建、上杉憲方が中興したという。1394年(応永1)憲方没後、その法名である明月院天樹道合よりとって院号にあてた。最明寺は北条時宗(ときむね)の代に禅興寺と改め長く栄えたが、足利(あしかが)氏以後は衰微して、やがて逆に明月院に付属する形となり、明治初期にはついに廃絶した。現在は、建長寺の塔頭として栄えたこの明月院だけが残り、木造上杉重房坐像(しげふさざぞう)、紙本着色玉隠和尚(おしょう)像一幅、紙本淡彩明月院古図一幅(以上、国重要文化財)などの什宝(じゅうほう)を伝えている。境内には本堂、北条時頼墓、鎌倉十井の一つ瓶(つるべ)の井、上杉憲方の墓と伝えるやぐらなどがある。なお、当寺は俗にあじさい寺ともよばれ、アジサイの名所としても著名である。境内は国史跡

[平井俊榮]

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デジタル大辞泉プラス 「明月院」の解説

明月院

神奈川県鎌倉市にある寺院。臨済宗建長寺派。山号は福源山。本尊は如意輪観音。アジサイの名所で、あじさい寺とも呼ばれる。境内は国の史跡に指定。

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事典・日本の観光資源 「明月院」の解説

明月院

(神奈川県鎌倉市)
かながわの花の名所100選」指定の観光名所。

出典 日外アソシエーツ「事典・日本の観光資源」事典・日本の観光資源について 情報

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