福万村(読み)ふくまんむら

日本歴史地名大系 「福万村」の解説

福万村
ふくまんむら

[現在地名]米子市福万

日下くさか村の南、佐陀さだ(半川)左岸の標高五〇―六〇メートルの地に位置する。文明四年(一四七二)二月三日の山名之定寄進状(瑞仙寺文書)に「会見郡二宮庄福万分本領之山内」とみえ、上は「山隠之小円山」、下は「河内谿」を限る地が日下瑞仙ずいせん寺に寄進された。同九年には福万分である瑞仙寺南向堀敷が、禅栖院殿(山名教之)寄付の旨にしたがい山名元之から同寺に寄せられている(同年閏正月一九日「山名元之寄進状」同文書)。永禄一二年―元亀元年(一五六九―七〇)には尼子勝久の伯耆国侵攻の際の軍忠により、湯原右京進(春綱)に対しその訴えを入れて、「福万内せきせう分」等の地を与えることが毛利氏から約束された(一〇月五日「毛利元就・同輝元連署書状」閥閲録)

福万村
ふくまんむら

[現在地名]香我美町福万

山南やまみなみ村の北にある山村西北から流れ入る香宗こうそう川が湾曲して南西に向かう。「土佐州郡志」は「縦四町横二町」と記す。嘉元三年(一三〇五)五月二〇日の行宗名主重元田地売券(行宗文書)に「福万名主国延」とみえ、福万氏の名田開発が知られる。天正一六年(一五八八)の大忍庄地検帳に村名がみえ、検地面積六町一反余はすべて給地で、中三郎左衛門二反余、残りは福万孫右衛門が領有。屋敷数一三、うち居屋敷六。社寺は若王子宮・長福ちようふく寺。

元禄地払帳では東川惣分のうちに一括されるが、個別に記す本田高は六一石余で、すべて西野惣右衛門の知行

福万村
ふくまんむら

[現在地名]福井市みや五丁目・大宮おおみや四丁目・新田塚につたづか

福井城下の北に位置し、重藤しげふじ村の西にある。「妙香院宮出仕之記」観応三年(一三五二)八月二八日条に「扈従僧綱隆寿法師、藤島庄内福満名被下行之」とみえる。慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図では「阿豆布西之郷」の地に含まれたと思われる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報