福崎村(読み)ふくざきむら

日本歴史地名大系 「福崎村」の解説

福崎村
ふくざきむら

[現在地名]水海道市福二ふくじ

小貝こかい川西岸に所在。北は福田ふくだ村。江戸初期に開発された村落で、当初はりゆうしまと称し、天領であった。慶長九年(一六〇四)の下総国豊田庄竜ケ島屋敷検地帳(塚田四郎文書)には塚田四郎右衛門(兵庫)ら六名の草分百姓が帳付されている。塚田兵庫は戦国時代には下妻城主多賀谷家の家臣で、関ヶ原役後旧領に土着し、伊奈忠次による谷原やわら開発では在地の用人格となっている(同文書)

元和七年(一六二一)検地(同文書)には福崎新田とみえ、寛永一一年(一六三四)の検地では田畑屋敷三九町余と四四人の名請人が記されている(同文書)


福崎村
ふくざきむら

[現在地名]岡山市福崎

高塚たかつか村の北、足守あしもり川の右岸に位置する。南端松山まつやま往来が通る。高松たかまつ城水攻めの際には、当村の現土合どあい橋の地点で足守川を堰止めた。慶長六年(一六〇一)木下家定に福崎村四三八石余が与えられた(「徳川家康宛行状」足守木下家文書)。寛永備中国絵図も同高で足守藩領。幕末まで同藩領。貞享二年(一六八五)の高三九六石余、家数四三・人数二一七(「賀陽郡・上房郡寺社改帳」総社市史編さん室蔵)


福崎村
ざきふくざきむら

[現在地名]岩瀬町福崎

岩瀬盆地の北東部にあり、東は小塩こしお村、南は桜川を境に大月おおつき村。江戸時代は笠間藩領で、「寛文朱印留」に村名が載る。「茨城郡村々様子大概」(笠間稲荷神社蔵)によれば、村には竹藪三、栗林一、四壁山四、溜池一、堰四があり、間中まなか山へ草刈のため毎年二〇人の人足を出している。文化期(一八〇四―一八)の戸数一五・人数七五、馬六。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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