日本古代における后妃の私有部民。〈私〉は寵愛を受ける人の意で,中国漢代には皇后に付属する官を〈私官〉といった。《日本書紀》敏達6年(577)2月条に〈詔して日祀部(ひまつりべ)・私部を置く〉とあるのが初見で,大化改新に廃止された。はじめ后妃の私有部民は允恭天皇の皇后忍坂大中姫のための刑部(おさかべ),同じくその皇妃で藤原宮にいた衣通郎姫(そとおりのいらつめ)のための藤原部,雄略天皇の皇后草香幡梭姫(くさかはたひひめ)のための日下部(くさかべ)などのように,宮号を付して呼んだが,大王の多くの后妃のうちから正妻として1人の大后(おおきさき)が定められるなど,后妃の地位が一定の部民を与えられるまでに制度的に確立化されるとともに,普通名詞的な〈私部〉という称呼に統一されたものと考えられる。607年(推古15)における壬生部(みぶべ)の設定と軌を一にするものであろう。
執筆者:岸 俊男
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
「きさきべ」の転訛(てんか)。名代(なしろ)の一種で、大王の后妃(こうひ/きさき)のために設定された部(べ)。『釈日本紀(しゃくにほんぎ)』で古訓を記した秘訓の部は「キサイチヘ」と訓(よ)む。呼称の淵源(えんげん)は、中国漢代の皇后の付属の官を私官(しかん)・私府と称したことに関連を求めるのが有力。『日本書紀』敏達天皇(びだつてんのう)6年(577)2月朔(ついたち)条に私部を置くとみえるのが初見。これ以前の后妃の名代は、忍坂大中姫(おしさかのおおなかつひめ)(允恭天皇(いんぎょうてんのう)皇后)の刑部(おさかべ)、藤原宮にいた衣通郎姫(そとおりのいらつめ)(允恭天皇皇妃)の藤原部、草香幡梭姫(くさかはたひひめ)皇女(雄略天皇皇后)の日下部(くさかべ)等のようにそれぞれの后妃の宮号を付して設定されていたが、大王家の組織の拡充・整備とともに后妃の地位が確立してくると、その私有部民である「私部」として制度化されたと考えられる。その分布は全国に及び、管掌者は首(おびと)、直(あたい)、または造(みやつこ)の姓(かばね)を有した。
[荒木敏夫]
『岸俊男著「光明立后の史的意義」(『日本古代政治史研究』所収・1966・塙書房)』
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