乳部とも書き,古代において,皇子の養育料を出す部とされている。古くから天皇や皇子の居処である宮をささえる経済的基盤として設定され,本来は各宮ごとに刑部(おさかべ)(忍坂宮),石上部(石上宮)というように個別的に設定されたものと思われる。しかし7世紀初めの推古朝ごろになって(《日本書紀》推古15年条),壬生部(乳部)として一括されるようになり,個別の宮ごとに一つの部がたてられることはなくなったらしい。7世紀後半に壬生部制は廃止され律令制が成立すると,東宮(皇太子)の資養物は東宮雑用料として,その他の親王,諸王は皇親時服(じふく)料や王禄として支給されることとなって,特定の人民をさき与えることはなくなった。また壬生部をもとに氏としての壬生氏が生じており,壬生直,壬生部,壬生部臣,壬生部直,壬生部君などがある。それらは山背,伊賀,駿河,下総,武蔵,常陸,美濃,若狭,丹後,讃岐,筑前,豊後など全国的に散在していた。
執筆者:鬼頭 清明
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
古代の部(べ)の一種。「乳部(みぶべ)」にもつくる。文字どおり皇子女の資養のために設置されたものである。『日本書紀』仁徳(にんとく)天皇7年8月条に、大兄去來穂別(おおえいざほわけ)のために壬生部を、推古(すいこ)天皇15年(607)2月条に、壬生部を定むとある。また皇極(こうぎょく)天皇2年(643)11月条には、蘇我臣入鹿(そがのおみいるか)に攻められた山背大兄(やましろのおおえ)皇子に、その従者が東国の乳部に依拠して再起を図るべく提言する所伝がみえ、その性格がうかがえる。なお今日の定説では、推古朝ごろ、それまで名代(なしろ)・子代(こしろ)として個々の皇子女に所属していた部を、再編・拡充して壬生部が成立したとみられている。
[大橋信弥]
乳部(みぶべ)・壬生・生部とも。6世紀以後,皇子女の養育のため広く設置された部民とするのが定説。大化の改新時に中大兄(なかのおおえ)皇子が天皇に返還した「入部(いりべ)」も壬生部のこととする説がある。「日本書紀」によれば壬生部は推古朝に設置された。先の敏達朝に后妃のためおかれた私部(きさいべ)とともに,これらの皇室部民は個々の皇族名や宮号を冠しないといわれる。律令時代の親王の食封(じきふ)などへ発展したか。8世紀には壬生・壬生部姓の人々が諸国に実在し,壬生郷も各地に分布した。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
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