朝日日本歴史人物事典 「秋田実季」の解説
秋田実季
生年:天正4(1576)
戦国末・江戸初期の津軽安藤(東)氏の後裔。秋田家中興の祖。安藤氏は戦国期には檜山安藤氏と湊安藤氏に分かれていたが,檜山安藤の愛季が湊安藤に入嗣して両家を合一した。実季はこの愛季の第2子。藤太郎,宗実,凍蚓と号した。天正15(1587)年9月父愛季の死去後13歳で家督を継いだが,翌年太平城主永井広治が反抗するなど領内では動揺が広がっていった。17年一門の重鎮である豊島道季が角館の戸沢氏と結び湊城を拠点に挑戦してきたが(湊合戦),苦戦の末豊島氏を倒して領内統一を進め,武藤,南部,津軽各氏の侵入を退けるとともに,比内浅利氏を屈服させて,秋田,檜山,比内3郡にまたがる領国を確立。居城も檜山(能代市)から湊(秋田市土崎)に移した。19年の豊臣秀吉の奥羽仕置に当たり,檜山,秋田両郡内に5万2440石余を与えられ,他に太閤蔵入地2万6240石余の管理を命じられた(総高7万8600石余)。朝鮮侵攻を目前にした秀吉が「秋田杉,秋田金」を入手するためにとった措置ともいえる。さらに中世以来担ってきた蝦夷沙汰も松前(蠣崎)慶広の任務に切り替えられた。秀吉の伏見城,敦賀城造営および朝鮮出兵にあたっては,北国海運を利用して材木や兵力を送っている。文禄3(1594)年成立の『秋田城之助殿分限帳』では,知行地6万8000石余,蔵入地2万9000石余(総高9万8500石余)となっており,このように検地などを通じて近世大名へと脱皮していった。しかし,慶長7年常陸佐竹氏の秋田への転封により常陸宍戸に転封し,10年には従五位下秋田城介となり,大坂冬夏両陣にも参陣。寛永8(1631)年仕置の落ち度を理由に伊勢朝熊(伊勢市)に蟄居させられ,同地で死去。歌道,文筆,茶道にすぐれた。同家はその後,正保2(1645)年5万5000石で奥州三春に転封となり,明治維新をむかえた。
(伊藤清郎)
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