1954年のジュネーブ協定で南北に分断されたベトナムが互いに戦った戦争。60年には南ベトナム解放民族戦線が創設され武装闘争を開始。62年には南ベトナムを支持する米国が介入を始め、65年に北爆を開始した。73年のパリ和平協定で停戦が発効し米軍は撤退を始めた。北ベトナムと解放戦線は75年3月に大攻勢を展開。同年4月30日に南ベトナムのズオン・バン・ミン大統領が降伏を宣言し、サイゴンは陥落、戦争は終結した。(ホーチミン共同)
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アメリカとサイゴン政権を一方とし、北ベトナムと南ベトナム解放民族戦線を他方として、十余年にわたり、第二次世界大戦後最大の規模で戦われ、戦後秩序の変容を促した大きな戦争。
[丸山静雄]
それだけ大きな戦いであるのに、この戦争はいつから始まったのか、いつ終わったのか、なんとよぶのか、などに関してさまざまの意見がある。始期には次の4説がある。〔1〕ジュネーブ協定(1954)調印直後説―アメリカのベトナム介入はジュネーブ協定に違反して行われたとして、同協定の締結直後をもってアメリカの侵略戦争が開始されたとするもので、もっぱら北ベトナムによって主張された。〔2〕1959年説―ゴ・ジン・ジエム政権の警察政治に対するベトミン系の復員軍人、一般知識人らによる南ベトナム内の抵抗は1957年から個人的テロの形で行われるが、59年になると、それが組織化され、集団規模のゲリラ闘争として展開される。当初、北ベトナム政府は南ベトナム内の反乱活動に対して傍観的だったが、1959年5月の第15回労働党中央委員会において、これを支持することを決定し、それ以降、南の旧ベトミン派への援助物資の送り出し、ホー・チ・ミン・ルートの建設に着手した。南の反乱形態が個人的テロから集団的ゲリラに拡大されるのは北の支援があったからであろう。これはベトナム戦争を北ベトナム政府のイニシアティブによる民族解放闘争、革命戦争として、59年をもって戦争の始期とみなす説である。〔3〕1960年説―南ベトナム解放民族戦線はこの年設立され、それ以降、解放戦線の抵抗は公然と展開される。〔4〕1961年説―アメリカの軍事行動が戦争といえるような形態をとるのはケネディ政権の「特殊戦争」からで、したがって一般にこれを戦争の始期とするものが多い。アメリカ政府は61年1月1日を起算日としてベトナム派遣軍人や、その遺家族に対する諸手当の支給を算出しているようである。
戦争が終結した時期についても、〔1〕和平協定が調印された1973年1月27日(発効は1月28日)、〔2〕アメリカがその軍隊の南ベトナムからの撤退を終わり、ニクソン大統領が戦争終結の宣言を出す73年3月29日、〔3〕ホー・チ・ミン作戦によってサイゴンが解放される75年4月30日、の三つの見方がある。したがって戦争継続期間は、ジュネーブ協定からサイゴン解放までとすれば約21年となる。
戦争の呼称についてはベトナム戦争、第二次ベトナム戦争(フランスとのインドシナ戦争を第一次ベトナム戦争とみた場合)、第二次インドシナ戦争などがあるが、ベトナム戦争が一般的な呼称となっている。ベトナムはベトナム戦争をアメリカの帝国主義戦争、新植民地主義戦争に対するベトナム民族の「反米救国戦争」「抗米救国戦争」とよんでいる。
[丸山静雄]
アメリカはベトナム戦争を戦うために延べ260万の兵力を派遣し、南ベトナム駐留の米軍は最高時には54万9500人に達した。アメリカ以外の参戦国軍の兵力は最高時には6万人を超え、サイゴン政府軍も最高時には118万人を上回った。これに対し北ベトナムと南ベトナム解放民族戦線の兵力は最高時には31万人に上った(ほかに南の政治勢力は157万人)。
戦争の犠牲者はアメリカ陣営が戦死者22万5000(推定。アメリカ軍の戦死者は5万7939)、負傷者75万2000(推定)、北ベトナム・解放戦線側が戦死者97万6700(推定)、負傷者130万(推定)だった。
ベトナム戦争は戦争の全般的な規模でこそ第一次、第二次両大戦に劣るとはいえ、動員兵力、死傷者数、航空機の損失、使用弾薬量、戦費では第一次大戦のそれを上回り、使用弾薬量、投下爆弾量では第二次大戦のそれをはるかに超えた。史上最大の破壊戦争であった。
[丸山静雄]
戦争は大きく3期に分けることができる。
第一期は1967年末まで、アメリカが兵力を増派して、さまざまの作戦を展開、また北爆を強化、サイゴン政権を育成するなど、だいたいにおいて戦争の指導権を握る段階である。アイゼンハワー政権(1953.1~61.1)の警察戦争、ケネディ政権(1961.1~63.11)の特殊戦争、ジョンソン政権(1963.11~69.1)前期の局地戦争が行われる時期に相当する。
警察戦争とは、アメリカの役割を軍事援助、経済援助の枠内に抑え、もっぱらサイゴン政権の警察行動によって解放勢力の活動を抑え込もうとしたもの。特殊戦争とは特殊部隊による戦争の形態をいう。特殊部隊とは現代版の忍者部隊で、ゲリラ戦、秘密戦(情報収集、宣伝、破壊活動)専門の部隊をいう。民族解放戦争はゲリラ戦によって戦われるとの判断から、ケネディ大統領がアメリカ国内でこうした部隊を養成し、南ベトナムに派遣したのが始まりである。アメリカの特殊部隊はサイゴン政府軍の特殊部隊を育成し、それとともに「ベトコン」(南ベトナム解放民族戦線)を相手にゲリラ戦、秘密戦を行った。また農民と農村の再編に手をつけた。それが戦略村計画をはじめとする一連の農村平定計画であった。戦略村計画は村落を解放勢力の影響範囲から切り離そうとするもので、村落を戦略地点に再配置し、水路、壕(ごう)、鉄条網、竹矢来で囲んだ。それによって、解放勢力が村落を補給・情報・休養基地として利用するのを防止し、解放勢力を孤立化させようとした。局地戦争とは、アメリカの地上部隊が南ベトナム内で通常兵器によって解放勢力と戦うことをいう。兵器、戦場を制限し、そうした制限内で行われる通常戦争である(核兵器は使用しない、戦場は南ベトナム内に限定する)。この局地戦争をアメリカは索敵撃滅戦法と北爆をもって戦った。索敵撃滅戦法とは、解放勢力の中核部隊(正規軍)を探し出し、追い詰めて捕捉(ほそく)撃滅しようというもの。中核部隊さえつぶせば、地方軍や民兵は自然に消滅するという考え方に基づいてとられた戦法である。北爆は戦場を北ベトナムに拡大するもので、地上部隊の戦場こそ南ベトナム内に限定されていたものの、空軍に関しては早くも限定論が無視され、戦争のエスカレーションがなし崩しに進行することになる。そこでジョンソン大統領は戦争権限を得て、これを戦おうとした。それが1964年8月のトンキン湾事件である。トンキン湾事件とは、アメリカの駆逐艦が北ベトナムの魚雷艇に攻撃されたとして、これに反撃するとともにアメリカが空軍をもって北ベトナムの海軍基地、石油貯蔵所を爆撃した事件である。しかし、のちにこれはアメリカ側によって意識的につくりあげられたなかば架空の事件だったことが明らかになった。ともかく、この事件を契機にジョンソンは議会の決議で戦争権限を獲得した。それ以降、ジョンソン大統領は戦争遂行の権限が大統領に全面的に与えられたとの立場をとり、65年2月から北爆を大々的に開始し、南の地上兵力も急ピッチで増強し、本格的な「アメリカの戦争」とした。
戦争の第二期は、1968年1月、テト攻勢によって北ベトナム・解放勢力が戦争の指導権を奪還、激しい戦闘の間にアメリカ軍の撤退が始まり、和平が模索される段階である。ジョンソン政権後期の局地戦争、ニクソン政権(1969.1~74.8)のベトナム化戦争が行われる時期に相当する。テト攻勢とは、ベトナムのテト(旧正月)を期して解放戦線側が総反攻に出て(攻撃開始は1月30日未明)、一時はサイゴンのアメリカ大使館を占拠し、またケサン基地のアメリカ軍を一掃するなどアメリカ側を震撼(しんかん)させた軍事作戦である。アメリカ・サイゴン軍とも大きく後退したが、やがて失地をほぼ回復した。解放戦線側の犠牲も大きかったが、これによって軍事勝利の困難なことをアメリカ側に知らせ、北爆停止の契機となった。
ベトナム化戦争とは、アメリカの地上軍は引き揚げ、そのあとの地上戦闘の責任をサイゴン政府軍が担当しうるように、アメリカがサイゴン政権に兵器、装備、資材を提供し、その軍隊を訓練し、またドル援助を与えて経済力を強化することをいう。アメリカのかね(ドル)、もの(兵器)と、サイゴン政権のひと(肉体)を結び付け、アメリカにとって安上がりの戦争を行おうというのである。
第三期は、1973年1月、和平協定が調印され、アメリカ軍が撤退したあと、北ベトナム・解放戦線とサイゴン政権との間に激しい戦闘が行われ、ついにホー・チ・ミン作戦によってサイゴン政権が崩壊する時期である。ホー・チ・ミン作戦とは、北ベトナム軍と解放戦線軍が1975年3月10日から4月30日にかけて展開した最後の総攻撃で、これによってサイゴン政権は瓦解(がかい)し、アメリカ軍は全員サイゴンから脱出し、ベトナム戦争に終止符が打たれた。
[丸山静雄]
この戦争には三つの側面ないし三つの性格があった。一つはアメリカの新植民地主義戦争である。これはサイゴン政権を通してベトナムを間接支配しようとしたものである。もう一つはベトナム民族による民族解放闘争で、戦いは南を解放し、北の社会主義を守り、南北を再統一することを大きな目標として戦われた。ベトナムは民族革命と社会主義革命を通して、この戦いを戦った。第三は冷戦の一環としての戦いである。冷戦はイデオロギーとナショナル・インタレスト(国益)をめぐっての対決である。かくてアメリカは中国共産主義封じ込め戦略を掲げてベトナムに遠征し、ベトナム側は人民戦争戦略をもって対抗した。アメリカ陣営には韓国、フィリピン、タイ、オーストラリア、ニュージーランドが兵力を派遣(参戦国)したほか、西側諸国も協力し、ベトナム陣営には社会主義諸国が加わった。この間、民主勢力によるベトナム人民支援の運動が各国で幅広く展開され、国際的な政治戦争の観があった。
[丸山静雄]
この戦争の最大の意味は世界で最大・最強の経済力と軍事力をもつとされたアメリカが初めて敗れたこと、民族解放運動が勝利し、それによって民族解放闘争の正しさと強さが実証されたことであろう。それは三つのことを示唆した。一つは第二次大戦後の冷戦構造を打ち破り、デタント(緊張緩和)の時代に道を開いたこと、もう一つは戦費によるドルの流出と、その価値低下がドルを基軸とする西欧の経済体制を根底から揺さぶり、西欧による世界経済支配の時代が去ったことを実証したこと、第三はアメリカの敗北によって力の論理が崩れ、力に根ざす従来の価値観が変容を迫られたことであろう。その後、ベトナムのカンボジア侵攻(1978.12)、ベトナムからの難民の流出に伴ってベトナム・ナショナリズムのあり方を問題とし、またベトナム戦争(ベトナム解放)の意味を改めて問い直そうとする動きもあったが、こうした三つの基本的な意義は変わらないであろう。
[丸山静雄]
『清水知久著『ベトナム戦争の時代』(1985・有斐閣)』▽『ニューヨーク・タイムズ編、杉辺利英訳『ベトナム秘密報告』上下(1972・サイマル出版会)』▽『スーザン・ソンタグ著、邦高忠二訳『ハノイで考えたこと』(1969・晶文社)』▽『丸山静雄著『ベトナム戦争』(1969・筑摩書房)』▽『丸山静雄著『インドシナ物語』(1981・講談社)』
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(片山裕 神戸大学教授 / 2007年)
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ベトナムでは抗米救国戦争という。ベトナムの統一をめざす民族解放運動と,これを共産主義の勢力拡大として阻もうとしたアメリカとの間に発生した戦争。北ベトナム(ベトナム民主共和国),それが支援した南ベトナム解放民族戦線と,アメリカおよびそれが支援した南ベトナム(ベトナム共和国)が対立。1954年のジュネーヴ協定後,南のゴ・ディン・ジエム政権は,アメリカの支援を得て南北統一選挙の実施を拒否。これに反対する勢力が北の支援を得て60年に南ベトナム解放民族戦線を結成。アメリカは61年から軍事顧問団を大量に派遣するなどしたが,63年のジエム政権の崩壊で南の危機が拡大したため,直接の軍事介入を決意し,64年8月のトンキン湾事件をへて,65年2月からは北ベトナム爆撃(北爆)を恒常化し,同年3月には南に戦闘部隊を派兵。北ベトナムも南に正規軍を投入して対抗。北と南の解放戦線は大きな犠牲を強いられたが,68年のテト攻勢などで果敢にアメリカ軍に抵抗し,国際的な反戦運動の高揚などもあって,73年のベトナム和平協定でアメリカ軍撤退を実現。75年の北と解放戦線軍のサイゴン攻略で南のベトナム共和国が崩壊して戦争は終結した。
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1961~75年ホー・チ・ミン率いるベトナム民主共和国(北ベトナム)とベトナム共和国(南ベトナム)との間で戦われた内戦に,アメリカが冷戦を背景に介入した戦争。アメリカは,54年のジュネーブ会議で生まれた南ベトナムを支持し,61年ケネディ大統領も同国に多数の軍事顧問団を派遣。64年ジョンソン大統領が北爆・地上戦を開始,米軍の兵力は最高時で56万を数えた。68年1月の解放戦線によるテト攻勢で形勢は逆転し,73年1月,北ベトナム・南ベトナム臨時革命政府とアメリカのニクソン大統領との間でパリ和平協定が成立して米軍は撤退した。75年4月の北ベトナムによるサイゴン(現,ホーチミン市)陥落で戦争は終結した。
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…19世紀末,米西戦争を契機に世界列強となった合衆国は,第1次大戦,第2次大戦を経て超大国となり,政治,軍事,経済,文化の面で決定的な発言権をもち,〈全能のアメリカ〉が意識されるようになった。しかし,1960,70年代,内に人種紛争,外にベトナム戦争という挫折の体験を通し,さらに冷戦の終焉により,アメリカは世界の中の一国として,相対的に自己を位置づけるようになりつつある。【斎藤 眞】
【自然】
広大な国土をもつアメリカ合衆国の自然は,きわめて多様性に富んでいる。…
…1960‐75。ベトナム戦争とも呼ぶ)民族革命戦争の総称。1978年1月以降のベトナム・カンボジア戦争,79年のカンボジア内戦と中越戦争を第3次インドシナ戦争とすることもある。…
…64年の大統領選で圧倒的な支持を得て当選すると教育,福祉,人種差別廃止,環境保全,都市開発など広範にわたる〈偉大な社会〉政策を提唱したが,これらは以後のアメリカ社会を方向づける基本的要素となった。外交面ではソ連やラテン・アメリカ諸国との関係改善に成果をあげたが,65年ころからはベトナム戦争が最大の問題となった。ジョンソンは戦争の早期終結をはかるべく北ベトナム爆撃,アメリカ陸軍の投入などを命じたが,戦争は逆に拡大長期化し,軍事予算の膨張,経済のインフレ化,反戦運動の激化を招く結果となった。…
…しかし,仏教各派をはじめ,ホアハオ教,カオダイ教の二大創基宗教など,反革命的性格を帯びた新宗教は,その組織,活動に多くの改造が加えられ,このため,その宗教活動は閉塞状態に追い込まれている。旧北ベトナムはフランスの植民地支配を脱却してのち,ベトナム戦争の破壊と混乱を経ながらも,短期間のうちにアジアでも有数の識字国に成長した。統一のなった今,ベトナムの教育は,旧北ベトナムの諸制度にならって改編,統一され,2段階12年制義務教育(初等学校9年,中学校3年)の普及・徹底,成人教育(思想教育)の重視など,社会主義国のための人づくりの努力が進められている。…
…ベトナム戦争(1960‐75年にわたる第2次インドシナ戦争)に対する反戦運動。それまでの反戦運動に比し,ベトナム反戦運動は,質的にも量的にも,はるかに際だったものであった。…
※「ベトナム戦争」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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