生物はその形態のみならず、生理、行動、生態にわたり著しく多様であり、しかもそれぞれの生物はその生活環境にうまく適応して生きているかにみえる。この多様性と適応性を、地球上で生物が誕生して以来、長い時間経過のなかで動的に変化・展開してきた過程として説明する試みを、広い意味で進化論あるいは進化理論という。
ヒトを含めた生物の由来への関心は、いわゆる創世神話をはじめ多くの例にみることができる。われわれが何であり、どこからきたのか。この問いかけの動機とその答えへの納得が一般にはいまも進化論を背後から貫いている。しかし、そうした由来についての「神話的説明」や神学的、宗教的説明を排除し、近代になって進化論が科学理論としてそれなりに確立してきているが、不明な点、つまり明示的に説明されるべき論点がいっそう増えてきたことも確かであり、それらの問いへの答えは未来に向けて開かれている。
[遠藤 彰]
生物の由来についての古代ギリシアの説明をまずは概説する。アナクシマンドロスは、変態を仮想し、魚のような生物が脱皮して人が生まれたと考えた。アナクシメネスは、生物は湿った大地から自然発生したと想像した。エンペドクレスになると、身体のそれぞれの部分がまず発生し、それらがうまく結合して完全な生物が誕生した、という奇怪な説を唱えた。初期のギリシアの自然哲学者たちの世界・生物の起源についての思想は、端的にいうと、創生の作用は神なしに行われたこと、つまりなんのデザインもなしの自然発生を想定したという特徴をもつ。ところが、ソクラテス以降になると、たとえば、プラトンのように著しく形而上(けいじじょう)学的思考に傾斜し、そこではむしろ進化的思想と正反対の観念が支配的になる。すなわち、調和的全体――霊魂に満たされた宇宙が想定され、生物(もしくは万物)の創造力として素朴な自然発生にかえてデーミウルゴスという力能が仮定されるからである。プラトンは進化論のアンチヒーローとさえ評されることになる。しかし、その弟子であったアリストテレスは、動物についての豊富な具体的資料に基づき、高度の分類体系を築き、動物の多様性の認識においても、その機能の認識においても、卓越した水準を達成した。それは遠く18世紀のリンネの時代に届くほどの内容を備えていた。のちに「自然の階梯(かいてい)」の観念をあてがわれはしたが、アリストテレス自身は適応的現象を目的論的に説明するに終始し、進化的観念を懐胎していないとされる。結局、ギリシア時代の時間観念は円環的――絶えず始源に回帰する周期的変化――でしかなく、生物の多様性や適応性を歴史的時間の脈絡に置くこと自体が、当時の説明論理の枠外にあったといわねばならない。ただ、目的論的説明は、適応概念の同義反復性とある意味で通底する側面を示している点は注目してもよいと思われる。
[遠藤 彰]
さて、この円環的時間観念の変革に最初に大きな影響を与えたのはキリスト教的世界観であった。聖書は世界の始源と終末を語り、直線的時間観念を定着させた。しかし、生物の由来については、6日間の創造の神話と「箱舟神話」を流布し、結果的には、いわゆる進化的説明が登場するまでの長い前史を「支え」続けた。それ以外の説明を排除してきたという意味で一種のパラダイムであったろう。キリスト教世界観における生成――安定――破局の図式は、生物の途中の変化を基本的には認めない。A・アウグスティヌスは、創造者の仕事を1本の樹木の成長に結び付けたし、トマス・アクィナスも、同様に創造を神によって事物に与えられた力により前進的に展開された過程とみなした。ある意味では「プログラムされた進化」という発想が、アリストテレスの目的論からキリスト教的世界観へ至って芽生えてきたともいえよう。とりわけ、トマス・アクィナス的生物観の枠組みは、13世紀以降アラビア経由でヨーロッパに紹介されたアリストテレスの動物学が、アルベルトゥス・マグヌスなどに積極的に摂取され補強された経緯と関連しているとみられる。
[遠藤 彰]
16~17世紀になると、多くの博物誌が刊行され始める。博物誌そのものの系譜は、アリストテレス以降は、ローマの大プリニウスの『博物誌』や、寓意(ぐうい)に満ちた『フィシオロゴス』が中世を通じてかなり広く読まれたとみられており、見逃せないが、この時代以降には「怪物」を含む博物誌が延々と流行した。未知の生物の発見は人々の活動範囲の拡大とともに当然もたらされるものであるが、実体を失ったことば(ラテン語や古代ギリシア語)の意味を再生する途上の「イメージの怪物」もおそらく不可避の「錯誤」であったろうし、怪物や奇形の「発見」は、キリスト教的世界秩序=調和の亀裂(きれつ)の表明でもあったとみえるが、生物の多様性が具体的にとらえ直される注目すべき(もっと強調されてよい)底流であったと思われる。17世紀には、F・ベーコンは、学問的枠組みの大革新を企図し、反アリストテレス主義を標榜(ひょうぼう)し、実験的博物誌(奇形の博物誌も含めて)の必要性を説いた。ベーコンの影響が実質的にどれほどであったかはともかく、16世紀以降は博物誌の著作『解剖図譜』『植物誌』『動物誌』が次々と出版され、生物の多様性は以前にもまして具体的に図像化されてとらえられるようになった。哲学的には、ライプニッツの連続性と充満(プレニテュード)の予定調和説が、「自然は飛躍しない」という、のちにC・ダーウィンの好んで用いたフレーズに象徴される形で与えた影響も無視できない。
博物誌(学)の大潮流は、経験的な「種」を、リンネの分類体系に結実させることとなった。とりわけ、J・レイは、種の適応的性質を神のデザインの証拠とみなしたし、それはリンネに大きな影響を与えたとされている。しかも、その発想はのちにペイリーW. Paley(1743―1805)などによってさらに神学的目的論の線で明確に述べられた。動物や植物は、人間のつくった機械よりすばらしい機械であり、これは人間の知性を超えた神の知性の産物である、というわけである。
リンネの分類体系においても、種の不変性は基本に置かれていた。生物の多様性をより具体的に把握してきたこの時代は、その多様性のもつ秩序とその適応性(完全性)をともに神の創造の手の内に再構成しようとしていた。あるいはそれとすれすれのところでライプニッツ流の予定調和の世界観に裏打ちされていた(たとえば理神論の線で)。連続性の概念は、e. volveつまり展開=進化ということばでボネによって「存在の大連鎖」の自然観として表明された。しかし、18世紀は「変化の時代」であった。生物も変化するという観念は、種の不変性を信じていたリンネですら、晩年にはその信念を揺るがせることになったほどに、徐々に普遍的になり、分類の整序による自然の体系によって「怪物」問題を乗り越えたかにみえたキリスト教的調和世界に、避けられない大亀裂が走り始めたといえよう。ド・メイエB. de Meillet(1656―1738)は『ティリアメッド』を書き、地球表面は最初海で覆われ、水生の植物・動物がいて、やがて陸が現れると、それらは上陸し変態した――すべての陸上生物はそれぞれ水生起源の祖先が変態してきた、という考えを表明した。さらにモーペルチュイは『生身のヴィーナス』『自然の体系』を書いて、原初の完全性を説明するために、識別力や記憶力をもつ遺伝粒子を想定し、種の安定性を強調した。これにはライプニッツの『単子論(モナド論)』の影響がみられる。しかも、その遺伝粒子への偶然的影響が新種を生み出すこと、十分とはいえないが選択(淘汰(とうた))の役割も見抜いていたといわれる。また、ビュフォンは壮大な『自然誌』を構想、執筆し、地球の歴史とともに生物の変化=進化を視野に入れたフランス百科全書派の、無機界から有機界への因果的合法則性を提示してみせた。
[遠藤 彰]
E・ダーウィン――C・ダーウィンの祖父――は『自然の殿堂』(1803)や『ズーノミア』(1794~1796)のなかで、体系的ではないが、生物が自ら新しい特徴を得ることによって海で生まれ、陸上へ進化したとの考えを唱えた。しかし、進化の考えを一挙に展開したのはラマルクであった。ラマルクは鉱物、植物から動物に至るまでの分類体系を構築しながら、その全体的傾向を進化ととらえた。『動物の哲学』(1809)で示された原理は、
(1)すべての生物はより複雑かつ完全な形態へ向かって進行する内的力能をもつと仮定され、その「生命力」は生物の統合性を生み、その秩序維持とさらに進んだ秩序を確立する流動体(熱量と電気性)によって実現される。
(2)すべての生物は環境の変化から生じる生存のための行動を担う内的な必要性をもち、それを支えるのが流動体である。
(3)また、新たに使用することによって獲得される形質を世代から世代へと伝播(でんぱ)し、これが複雑化を実現した(獲得形質の遺伝)。
このような原理で、キリンの首がなぜ長いのかを説明したエピソードはよく知られている。ここではカタツムリの角(つの)(触角)の進化を説明してみる。「カタツムリははいながらその前方の物体に触れる必要を感じた。そしてその頭の先端でそれに触れようと努力する。そうするうちにカタツムリは流動体をそこへ送り、頭の先端を伸長させた。そしてついにはそこへ神経が伸び触角は永久に完成した。さらに触角を獲得したカタツムリは親から子へとそれを伝達つまり遺伝した」。このラマルクの進化論は、単純から複雑への完全化の検討であり、現存する単純な生物ほどその由来が新しいとみる、連続自然発生説でもあった。ほぼ同時代、ゲーテは生物の形態に関心を寄せ、変態(メタモルフォーゼ)を原型からの変化の原理として把握していた。
脊椎(せきつい)動物の古生物学の創始者でもあるキュビエは、実証主義的立場から、ラマルクの進化論への反対を表明した。彼は多数の生物の化石を研究し、その形態上の相関関係を検討したが、化石を含む地層の分析を通して、各段階で新たな動物相や植物相の創造を伴った地殻の激変と遷移の考え方が正当化されるとみた(天変地異説)。また、ジョフロア・サンチレールは、新しい種の上位の分類カテゴリーが、繁栄することのできる怪物の偶然的出現によって出発するとの仮説から、形態の不連続性と由来の連続性の概念を結合しようと試みた。これは当時としてはすばらしい卓見というべきであろう。
生物の多様性と適応性を、あらかじめ決められた設計図を想定したり、設計者の背後から光を当てて説明することなしに、どのように説明できるであろうか。この方向で、目的論を排して説明してみせたのがC・ダーウィンやA・R・ウォーレスであった。とくにダーウィンは『種の起原』(1859)において、進化の機構を基本的に以下の論理で説明した。
(1)種内の個体はその形態と生理に著しい連続的変異があり、(2)この変異は機会的に生じ、遺伝する。(3)動物や植物の個体群は非常に高い増殖能力をもつ。(4)しかし資源は限られており、ある個体群の個体は自らの生存とその子孫の生存を目ざして闘争しなければならない。(5)したがって、いくつかの個体(最適者)だけが生き残り、同じ性質をもった子孫を残す。(6)この最適者の自然選択(淘汰)を通して、種はよりよく適応した個体によって構成されるようになる。
この説明の前提は、遺伝する変異性と限られた資源だけであり、その帰結=自然選択はいわば自動的に導かれる。機会的変異を選択するだけで、現存している複雑に統合されている多種多様な生物をどこまで説明できるのか。この疑問には、当時も、そしてある意味では現在でも、究極的には明解に答えられてはいない。しかし、事実として、生物の多様性と適応性があらかじめ設計されたものではなく、原理的には変異と選択の歴史的産物であるという理解の枠組みは確立された。もちろん、ダーウィンは、遺伝機構については獲得形質の遺伝を認める当時の遺伝学の「常識」を超えてはいなかったし(ジェミュールという遺伝を担う粒子が体細胞から生殖細胞へ移動して獲得形質が遺伝すると考えていた)、選択の単位については個体を想定していたものの、かならずしもそれで尽きるものではなかったし、種形成(分化)の機構の理解も十分ではなかった。それに地質年代や化石記録にも信頼を置ける状況ではなかった。そうした誤りや限界がありながらも、自然選択の原理は、マルサスやH・スペンサーの影響を受けたにせよ、ダーウィンによって生物の世界について展開された。生物進化を説明する基本的枠組みは現在もこのダーウィンの自然選択の考え方を基礎としている。
[遠藤 彰]
その後、19世紀後半には、さまざまな進化理論が提唱された。種分化における地理的隔離の重要性はワグナーM. F. Wagner(1813―1887)とグリックJ. T. Gulick(1832―1923)により異なった視点から強調された。ワグナーは異なった環境の作用を、グリックは環境の差異がなくても生じる分岐のあることを指摘した。また、ネーゲリは内的指向力が環境とはまったく独立に進化の方向を導くことを、アイマーは進化がかならずしも適応的ではないが定向性をもって進むことを強調した。コープは古生物学的考察に依拠したラマルク的見解を復活させた(ネオラマルク主義)。
遺伝学については、その後、ワイスマンが生殖系列説(世代を越えて伝わるのは生殖質であり、体細胞質は行き止まりであるという考え)から獲得形質の遺伝が不可能なことを導いた。これは現在、分子遺伝学によって基本的に支持されている。遺伝的形質の伝わり方については、メンデルの得た統計的経験的結果が1900年にド・フリースらによって再発見され、また突然変異が発見されるに至り、さらに、T・H・モーガン一派のショウジョウバエ遺伝学の発展を経て、遺伝子は染色体上に座位をもつものとして理解されるようになった。
[遠藤 彰]
また、突然変異による種分化の可能性は、遺伝子プールとしての個体群(集団)における多くの遺伝子座にある対立遺伝子の頻度の変化(小進化)の理論的研究によって検討された。すなわち、R・A・フィッシャー、ライトS. Wright(1889―1988)、J・B・S・ホールデンらが集団遺伝学を確立し、進化を集団=個体群の現象として理解することの重要性が認識されるようになった。これらの研究が次にみる進化の「総合説」を準備することになる。
1930~1950年代にかけては、進化の総合説への統一化が試みられた。J・S・ハクスリーをはじめ、古生物学のG・G・シンプソン、系統進化学のマイアE. W. Mayr(1904―2005)、遺伝学のドブジャンスキーらは、それぞれの著作のなかで進化理論の総合化を表明した。総合説は、遺伝の染色体理論、集団遺伝学、生物学的種の概念を軸とし、古生物学や生物学諸分野の概念を整理拡張し、獲得形質遺伝の完全な否定、進化過程が漸進的な変化であり、突然変異は集団(メンデル集団)内の遺伝子頻度の変化=小進化を基本として説明でき、その進化の方向は自然選択によって規定される、という内容を骨子としている。いわゆるネオダーウィン主義の進化理論として再構成されたわけである。そうした試みを経て、生物学のあらゆる問題は進化的な説明を必要としていると考えられるようになった。とりわけ、分子遺伝学、行動学、生態学などに大きな影響を与えてきた。さまざまな生物学的構造や機能の存在する意義が問われ、その選択的利益を説明することが一般化してきた。進化についての新たな研究がむしろここから再出発したともいえよう。
しかしながら、研究の進展は分野によってさまざまであり、1950年代までは、たとえば動物の社会行動や有性生殖の進化を自然選択で説明することは困難にみえていた。さらに、いわゆるルイセンコ論争にみられるように、遺伝=粒子論批判も根強いものがあった。
一方、遺伝子は、その後、生化学的な研究によって「一遺伝子/一酵素」説の裏づけを得て、1953年J・D・ワトソンとクリックによりDNA(デオキシリボ核酸)として実体的に把握されるに及び、1960年代までに遺伝子概念、遺伝機構の分子レベルでの基本的解明が進んだ。遺伝情報が核酸からタンパク質へ流れるというセントラルドグマは、ワイスマンの原理を分子レベルで説明したものと解され、獲得形質遺伝をめぐる論争に決定的ともいえる衝撃を与えることとなった。現代の進化論は、この分子遺伝学の発展・成果を抜きにしては語れない。
[遠藤 彰]
1960年代から現在に至るまで、進化理論をめぐる現代の状況には目覚ましいものがある。生物学の各分野や古生物学の活発な研究が相次ぎ、数多くの論争そして成果が生み出され、各分野の教科書は軒並みに書き変えられてしまった。ここでは主要な論点を列挙するにとどめざるをえない。
(1)大進化の変化パターンは漸進的かそれとも急激な変化と長い停滞からなるか、(2)自然選択の単位は個体か集団かそれとも遺伝子か、(3)進化を説明するのは適応論プログラムか中立説か、(4)分類学の方法をめぐって、表形分類か分岐分類かそれとも進化分類か、(5)種形成論をめぐって、異所的か同所的か側所的か、など、いずれも単純にどちらを採用するかということではなく、といって単純に折衷すればよいというのでもない。進化についての根本的視点にかかわって重要な論争が数多く展開されてきている。
それらの背景には、もちろん新しい事実や仮説が数多く生まれてきている。生命の起源についても、その生化学的基盤の大胆な検証実験や核酸―タンパク質系の生成に関する理論的理解が進展した。また、分子レベルの中立突然変異の存在が明らかにされ、免疫機構の解明が進み、また遺伝子の分析技術も飛躍的に進歩し、真核生物の遺伝機構の複雑さがしだいに明らかになりつつあり、従来の原核生物を基盤にしたセントラルドグマの枠組みには単純には収まらなくなってきた。その真核生物の起源に関しても、その細胞内小器官といくつかの原核細胞との相同性から、原核生物の共生説がかなり有力視されてきている。これが事実だとすると、分岐一方で考えてきた種形成論も、この限りにおいては根本的に修正を迫られることになる。染色体の進化についても遺伝子重複説が提出され、植物の一部では妥当性を認められつつある。発生分化の機構は依然として難題だが、いくつかの興味深い仮説も出されている。有性生殖の起源は将来解かれるべき重要問題の一つであるが、その進化的意義は深く認識されるようになってきた。また、動物の行動についても新しい見方が生まれ、神経生理機構の解明にとどまらず、配偶行動や擬態、利他的行動などについての数多くの新しい知見が得られてきた。生態学でも、自然選択に関してr-K選択説をはじめ、生活史や社会構造についての解明が進み、競争概念を基礎にした生物群集論も試みられ、さらに共進化や生物の相互作用の理解、関心が深まりつつある。さらに、大陸移動説を踏まえた古生物学の再構成はもちろんのこと、いわゆる大量絶滅の原因についても隕石(いんせき)説を発端に刺激的な論争も行われている。
さまざまな事実や新しい視点によって、従来の総合説は進化生物学として、より広範な形でいま一度再構築されつつあるかにもみえるが、旧来のネオダーウィン主義の枠組みへの多くの異論も出され、そのなかには単なる誤解も多々あるものの、今後も波瀾(はらん)含みで展開するものと思われる。
[遠藤 彰]
『八杉竜一著『自然選書 近代進化思想史』(1972・中央公論社)』▽『八杉竜一著『生物学の歴史』上下(1984・日本放送出版協会)』▽『小川眞里子著『甦るダーウィン――進化論という物語り』(2003・岩波書店)』▽『中原英臣著『図解雑学 進化論』第2版(2005・ナツメ社)』▽『C・ダーウィン著、八杉竜一訳『種の起原』上下(岩波文庫)』▽『J・B・ラマルク著、小泉丹他訳『動物哲学』(岩波文庫)』▽『佐倉統著『進化論の挑戦』(角川ソフィア文庫)』▽『中村禎里著『生物学の歴史』新版(ちくま学芸文庫)』
生物進化論の歴史はC.ダーウィン以前,ダーウィン,ダーウィン以後に大きく3区分することができる。しかしダーウィン以前のうち,古代ギリシアの自然哲学における進化思想は時代的にもかけ離れており,近代の進化論とは区別して扱われねばならない。
ミレトス学派のアナクシマンドロスは,大地の泥の中に原始生物が生じてしだいに発達し,さまざまの動植物ができ,最後に人間があらわれたと説いた。エンペドクレスは,動物の体のいろいろな部分が地中から生じて地上をさまよいながら結合し,適当な結合となったものが生存して子孫を残したとのべた。またアリストテレスとともにプラトンの弟子であったスペウシッポスも,生物が単純なものから複雑なものに進み,ついに人間を生じたとしている。これらの考えは,民間伝承と哲学が結びついたにすぎないともみられるが,また他方,造物主の観念に束縛されない自由性をもつ点で評価されることもある。アリストテレスは自然物に関し,無機物から下等植物,ついで順次に高等植物,植虫類,下等動物,高等動物,最上位に人間という配列がなされるということ,すなわち後世いう〈自然の階段scala naturae〉の考えをのべた。もしこれを時空的発展として解釈すれば進化論ということになり,それでアリストテレスを進化論者の列に加える意見もあるが,一般には認められていない。ところで古代でも,アリストテレスと同時代のスペウシッポス以後には,進化論的観念があらわれていないということは,アリストテレスの目的論的生命観がそれだけ強固な支配力をもったことを示すものでもあろう。もっとも原子論者ルクレティウスの《事物の本性について》に進化の観念がほの見えているといわれることはある。のちにヨーロッパがキリスト教支配の時代にはいると,原子論と同様,もはや進化論はあらわれてこない。
近代になり生物進化の観念がまず最初に一つの流れとして認められるのは,18世紀なかば以降のフランスである。前世紀末における古代人と近代人の優劣論争で代表されるような,社会および人間に関する進歩の観念がその背景をなすとされる。18世紀的唯物論がこれに加わる。モーペルテュイ,ビュフォン,ディドロ,ドルバックらが主要な進化思想家としてあげられる。モーペルテュイとビュフォンが,ボルテールとならんでフランスへのニュートン力学の紹介者であることは,この力学がフランス思想に自然の合則性の観念を直接培って,進化観念の土台を準備したことを示している。ただしいうまでもなく,こうした進化観念の誕生と発展は,生物および地球に関する科学研究の発達を足場として可能になっている。フランス進化論の皮切りというべき著作は,モーペルテュイの《人間と動物の起原》(1745)で,モーペルテュイはまた遺伝学の先駆者としても評価されている。ビュフォンは大著《博物誌》(1749以降)の諸巻で進化をほのめかしているが,反対の意味にとれる記述もある。彼は地球の年齢を《創世記》にもとづくよりはるかに長大なものとし,それを測定するための実験も試みた。ビュフォンが進化論者として認められるなら,それはこのような地球に関する観念の変革と関係しているのであろう。ドルバックは《自然の体系》(1770)で,人間を含め生物が地表の変化にともない変化してきたことを説き,ディドロは現在の大動物も過去には小さいうじ虫のごときものであったとのべている。
ラマルクの進化論は《動物哲学》(1809)で体系的に説かれ,C.ダーウィン以前の進化論のうち科学の学説としてもっとも整ったものである。彼の進化論がパリ自然史博物館の講義で最初にのべられたのは,19世紀のごく初年であるが,しかし彼の前半生は大革命にいたるまでの時代にすごされており,理神論を含め,彼の世界観には18世紀フランス思想の影響が印されている。ラマルクの進化論の根本は,無機物から現在も自然発生している原始生命が,内在する力によって発達し複雑化した生物になっていくが,しかし生物はまた環境の直接作用や習性の影響,つまりは獲得形質の遺伝により多様化していくということである。ラマルクの進化論は少数の学者の注目をひいたにとどまり,彼は周囲からは無神論者,唯物論者として非難された。
18世紀にはドイツの哲学者カントの進化思想もあげられる。それはとくに《判断力批判》(1790)にあらわれているとされる。だがフランス進化論とともに流れとして注目されるのはイギリスのものである。すなわちE.ダーウィンから断続してはいるが,その孫で大進化論者のC.ダーウィンにいたる流れであり,これもまた社会における進歩の観念を背景にすると見られる。ただしこの場合には,産業革命の進展以来の産業資本主義の発展期における進歩の観念であって,その時代の社会の諸観念を反映した進化論がしだいにうちたてられていくようになる。E.ダーウィンは著作《ゾーノミア》(1794-96)で,生命は海中に誕生し発達して人間を生じたと説いた。ラマルクの進化論より早く,しかも進化要因を含めラマルクと共通するところが多い。しかし両者の進化論は互いに独立に形成されたと見られている。19世紀になり,C.ダーウィンの自然淘汰説の先駆となる研究もいくつかあらわれたが,当時は注目されず,チェンバーズR.Chambersの著作《創造の自然史の痕跡》(1844)が自然神学との混合のような進化論ではあったが,一般の関心をよび多くの議論を起こさせた。C.ダーウィンの進化学説公表の直前にでたH.スペンサーの進化論では,進歩の観念との関係がきわめて密接である。彼は等質の状態から異質の状態に進むことをもって進歩であるとし,生物の進化をその一環として規定した。この考えには分業などの進んでいく当時の社会情勢が反映している。スペンサーは生物と社会の並行的な見かた(社会有機体説)にもとづき,生物進化論と並んで社会進化論を唱えた。
C.ダーウィンが種の起原,つまり進化についての系統的研究を始めたのは,ビーグル号航海から帰った翌年の1837年,28歳のときであり,学説の骨格も早く成り立っていたが,公表されたのは58年7月1日のリンネ学会においてである。マレー諸島滞在中のA.R.ウォーレスから送られてきた論文が,ダーウィン自身の自然淘汰説と同趣旨であり,結局,両者の論文を同じ表題のもとにおいたジョイント・ペーパーとして発表することになったのであった。この論文はほとんど理解されず,ダーウィンが急ぎ自説をまとめた著作《種の起原》が,翌59年11月に刊行されて初めて思想界に風雲を巻き起こすことになった。とはいえ,ダーウィン学説の普及には約10年を要した。
ダーウィン学説の中心的な柱は自然淘汰説であり,ダーウィンは自分の独創的な学説としてとくにそれを強調しているが,器官の用不用というラマルク的要因も認めている。ところで自然淘汰説は,産業資本主義の発展期における自由放任(レッセフェール)的競争社会の観念が反映したものであるということが,早くから批評家たちによって指摘されており,一般の人たちが自然淘汰説を歓迎して受容したこともそれと関係があるとされる。ダーウィンとウォーレスが,ともにマルサスの《人口論》から示唆を受けていることもその見かたの根拠になっている。だが,もし自然淘汰説が単に社会観念の反映にすぎないものであれば,その点ではダーウィン以前の諸説と変わらないことになる。しかしそうではなく,進化論の歴史におけるダーウィンの真の意義は,学説のきっかけとなった観念とはかかわりなく,その学説を近代科学の方法の原則に従って整頓し体系化し,そうすることによって進化という問題を科学研究の対象として確立したことにある。科学研究の方法論に関してダーウィンは,W.ヒューエル,J.F.W.ハーシェルという当時の代表的科学哲学者の著作や彼らとの個人的接触から学び,また実践面ではライエルの地質学から学びとった。イギリスの科学哲学における前世紀のD.ヒューム以来の伝統が,ダーウィンにおいて重要な役割をしたことになる。
→ダーウィニズム
《種の起原》の刊行以後,ダーウィンの確立した道にそって進化の科学的研究が発展することになったが,進化論の受容は聖書の《創世記》の記述を否定するものとなるから,それは宗教とくにキリスト教の信仰にたいする大きな衝撃となった。だがそれだけでなく,進化論は人間の世界観あるいは社会思想にたいしきわめて多面的な影響を及ぼした。それらの影響には,進化論一般からのものとダーウィンの自然淘汰説からのものとを一応区別できる。進化の一般的観念は,世界の事象の歴史的な見かたをうながし,ものごとの科学的・実証的把握の重要さを印象づけ,それは教育理論に重大な変革を要請するものともなった。また人間の動物的本性,つまりサル的先祖からの進化に人々の関心を引きつけ,そのことは一方では改めて進化論の忌避を助長し,他方では人間行動の本能主義的理解にみちびいた。ダーウィン学説発表後に,通俗刊行物にもっとも多く掲載された記事は,人間のサルからの進化に関するものであった。
つぎに進化論一般でなく,ダーウィンの自然淘汰説の思想的影響としてあげねばならないのは,人間の社会において生存競争が不可避の原理であるとの観念がさらに強化され,優勝劣敗あるいは弱肉強食の合理化の議論が頻繁になされるようになったことである。エンゲルスやマルクスも,ダーウィンの進化論に史的唯物論の立場で関心を寄せたが,同じころアメリカでは進化論が保守的社会観の理由づけに使われた。社会は漸次的に進歩する本性をもつものであり,その進歩を速めるなどのために無理な介入はすべきでないというのである。このように進化論からのきまった思想的影響というより,それぞれの社会で進化論がつごうよく受けとられている場合が多く,そのことは明治期の日本でも見られる。
いま上でも触れたが,19世紀後半より20世紀前半にわたり,アメリカでは進化論の思想的影響がもっとも特徴的にあらわれている。ダーウィン学説とともにスペンサーの進化論が普及したことはその一つであり,また進化論がプラグマティズムの哲学の成立をうながしたことが注目される。進化論の哲学への影響は,フランスのベルグソンの《創造的進化》(1907)などいろいろあるが,プラグマティズムは最大のものといえる。
進化論への世界の知的興奮は,20世紀前半に進化の科学的研究がいわば科学の軌道で安定して進められるようになってから,少なくとも外面的には沈静し,それは進化が科学的常識となったことを意味するものでもあった。ところがアメリカでは,1920年代なかばに進化論が反宗教的であるとの理由で,その教育を禁止する法律がいくつかの州でつくられ,それらの法律をめぐって訴訟が起こされた。問題はその後ながくくすぶっていて,60年代に再燃し,さらに80年前後に天地創造説と進化論を平等に教えさせるべきだという法案が出されて裁判沙汰となった。
ダーウィンの進化論は,同国人T.H.ハクスリー,ドイツの学者E.H.ヘッケルらの活動で普及した。しかしヘッケルにしても,ゲーテ,ラマルク,ダーウィンを三大進化論者として並列するものであり,また進化は認めるが自然淘汰以外の要因を重視する意見も多くの学者によって出されるようになった。ラマルク説,定向進化説,隔離説などである。19世紀末年に近づくころより,A.ワイスマンによるネオ・ダーウィニズムが普及し,自然淘汰の万能が主張されたが,それは生殖による遺伝質の混合を淘汰の素材であるとし,遺伝質そのものは不変的であるとするものであった。そして前世紀末よりの遺伝学の発展も,生物の性質の不変性の面を強く印象づけ,そのため20世紀初年には進化の不可知論的時代とよばれる様相もあらわれた。この間にド・フリースの《突然変異説》(1901)が出され注目をひいたが,それは上記の情勢の中で出たためにいっそう関心を呼んだのでもある。やがて遺伝子説が確立され,突然変異が淘汰の素材であると考えられるようになり,1930年ごろからの自然淘汰説を柱とする集団遺伝学の発展で,新たな段階でのネオ・ダーウィニズムが基礎づけられ,それはまた生物学の諸分野の総合という面から総合学説synthetic theoryとも呼ばれた。
分子生物学の成立と発展は,分子進化の研究を進化学の重要な分野として確立した。その成果として生まれた木村資生(もとお)の中立説(1968)は,自然淘汰万能の観念に問題を投じ,衝撃を与えるものとなった。またその後,自然淘汰によって新種の起原となるほどの新たな形質が生じうるか,進化の経過は果たしてダーウィン説でいうような連続的,漸次的なものであるかなどに関して,現代科学の成果をふまえた問題提起がなされ,進化学説への根本的再検討の気運が強まっている。
江戸時代末期近く石門心学者の鎌田柳泓(りゆうおう)(1754-1821)が著した《心学奥の桟(かけはし)》(1816稿,1822刊)に進化の観念がのべられており,それは蘭学書よりの知識にちがいないが,詳細は不明とされる。明治時代に入り,松森胤保(たねやす)《求理私言》(1875)に進化のことが書かれたが,進化論の最初の体系的な紹介は1878年に東京大学動物学教授として来日したアメリカ人E.S.モースによってなされた。その講義はのち石川千代松訳《動物進化論》(1883)として刊行された。石川は《進化新論》(1891)を,丘浅次郎は《進化論講話》(1904)にはじまる多数の著作を書き,進化論を普及させた。これらと並行しダーウィン,スペンサー,ハクスリー,ワイスマンなどの著作もあいついで翻訳された。明治期の日本には,アメリカを介してスペンサーの進化論,とくに社会進化論の大きな影響が認められるが,それを含め進化論の思想的影響は広範かつ多面的であった。もともとモースを招いたのは外山正一の発意であったが,彼は社会進化論に関心を寄せていた。モースと同じころ来日し,長く日本に住んだアメリカの哲学者で美術研究家のフェノロサも,スペンサーの社会進化論を普及させた。石川,丘の諸著でも進化論にもとづく社会観や人生観がのべられており,そのことは書物の普及のために重要な役割をした。哲学者加藤弘之は,自然淘汰説を知って天賦人権説を捨て,生存競争にもとづく優勝劣敗を社会の原理とする説に転じた。他方,明治後半より大正年代にかけて,当時のいわゆる社会主義者たちが進化論に関心を寄せた。幸徳秋水,大杉栄,堺利彦,山川均らであり,大杉は《種の起原》の翻訳もした(1914以降)。だが生存競争説は,社会主義への攻撃の論拠にも使われた。社会進化論と関連し法律進化論は,穂積陳重らの法理論に影響を与えた。
昭和年代になり,生物進化の研究は進化学の名で呼ばれることが多くなり,小泉丹および駒井卓がこの学の成果のおもな紹介者として活動した。世界観などとの関係を離れ,純粋に科学的研究の問題として扱われるようになったのは,前に触れた世界における進化研究の新たな動向の反映でもある。駒井はネオ・ダーウィニズムの線に添ってみずからの研究も進めた。徳田御稔は遺伝学を重要な基盤としつつも,ネオ・ダーウィニズムへの批判を併せ行った。これら進化学の紹介を日本の進化論の第2段階とすれば,第3段階は日本の学者による独自的学説の樹立ということになる。前記の木村資生の中立説はその一つであり,また今西錦司はダーウィン批判の議論を展開し,種形成に関する新理論を提唱した(《ダーウィン論》1977,その他)。
執筆者:八杉 龍一
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…プロテスタント正統主義(ファンダメンタリズム)を熱心に信奉する南部はバイブル・ベルトとよばれていたが,同年3月テネシー州議会は,聖書の天地創造説に反する理論を公立学校で教えることを禁じた。そのためデートンという小さな町の高校の生物学教師スコープスJohn T.Scopesは進化論を教えて逮捕され,7月に裁判が行われた。これが一躍全米の注目を集めたのは,3回も大統領候補に指名され,国務長官を務めたこともあるW.J.ブライアンが検察側に,当代一流の弁護士ダローClarence S.Darrow(1857‐1938)が弁護側に加わったためである。…
…新しい手段と意欲によって,生物の多様性やいろいろの現象を関連して見る必要が認識され,解剖学や生理学では比較の方法が意識されるようになった。これは次の世紀での進化論に基礎を与えるものであった。
[生命観の変化]
生命観についてみると,16世紀から17世紀にかけてはS.サントリオやファン・ヘルモントに発したイアトロケミスト(医療化学派),ボレリに代表されるイアトロフィジシスト(医療物理学派)の考えかた,またデカルトの二元論などが,それぞれの時点での物理学や化学の進歩を反映しつつ,生命現象を統一的にとらえようと試みてきた。…
…ラマルクの著書。進化論を体系的に述べた最初の書物。1809年刊。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
一般的には指定地域で、国の統治権の全部または一部を軍に移行し、市民の権利や自由を保障する法律の一部効力停止を宣告する命令。戦争や紛争、災害などで国の秩序や治安が極度に悪化した非常事態に発令され、日本...
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