稲取村(読み)いなとりむら

日本歴史地名大系 「稲取村」の解説

稲取村
いなとりむら

[現在地名]東伊豆町稲取

白田しらだ村の南にあり、東は相模灘に面する。稲取崎が突き出し、その北側は小湾を形成する。西から稲取大いなとりおお川が湾内に流入する。ほぼ湾に沿って東浦ひがしうら路が通り、西隣は見高みだか(現河津町)。現群馬県嬬恋つまごい村の吾妻あがつま神社が所蔵する文安元年(一四四四)一〇月八日銘の懸仏に「河津荘稲取郷」とみえ、稲取郷は河津かわづ庄に含まれていた。大川おおかわ三島神社の大永四年(一五二四)二月二四日付棟札には「鍛冶稲取村九郎衛門森綱」、奈良本ならもとの鹿島神社の天正九年(一五八一)九月一〇日付棟札には「大工稲取深沢与五左衛門」とあり、鍛冶や大工が居住していた。永禄一二年(一五六九)閏五月四日、稲取・片瀬代官・百姓中に対し三嶋社(三嶋大社)神事銭の納入が命じられているが、これは稲取郷が他国衆毛利丹後守(北条高広)の所領であったため未進しても用捨していたためという(「北条家朱印状写」三島古文書)。天正四年一〇月三〇日に伊豆奥郡郡代の清水康英は、清水右京亮代の村串和泉に三嶋社神事銭の催促を命じるが、そのうちに当地も含まれている(「清水康英判物」伊達文書)

江戸時代は初め幕府領、天明五年(一七八五)沼津藩領となり幕末に至る(韮山町史)。寛永一二年(一六三五)頃の高二七五石余(「公儀御普請」細川家文書)元禄郷帳では高三一〇石余。延宝三年(一六七五)年貢割付(東伊豆町役場蔵)によると田一七町七反余・畑一二町八反余・屋敷三町五反余、小物成は船役(一貫八〇〇文)・肴役・川役・水乞役。江戸中期には船役永四貫五〇〇文、前記のほかに鉄砲役・茶畑上木年貢・御菜役、鮑・栄螺・海老運上永六貫余が加わる(「年貢割付状」同役場蔵)。安政六年(一八五九)には鮑・栄螺・海老運上一一貫余、前記のほかに質屋冥加も加わった(「年貢皆済目録」同役場蔵)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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