稲荷新田村(読み)いなりしんでんむら

日本歴史地名大系 「稲荷新田村」の解説

稲荷新田村
いなりしんでんむら

[現在地名]川崎区江川えがわ一―二丁目・殿町とのまち一―三丁目・一―二丁目・田町たまち一―三丁目

北西は川中島かわなかじま村・大師河原だいしがわら村・池上いけがみ新田に接し、南は海、東は多摩川河口を望む。慶長一六年(一六一一)りよう用水の完成により大師河原の寄洲に開発された新田。田園簿に「稲荷新田」とみえる。しかし文政一〇年(一八二七)の村明細帳(「稲荷新田考」所収)によれば、寛永二年(一六二五)に開かれ、元禄一〇年(一六九七)検地まで「大師河原新田」と称したという。幕府直轄領。大師河原の池上氏によって開発された村の南西を占める七稲荷新田組と、北条氏旧臣と伝える石渡氏、上杉氏旧臣と伝える小島氏らが開いた多摩川に沿う村の北東部の六稲荷新田組からなり、両組は独立性が強く各々村方三役を置いた。田園簿では村高九〇六石二斗余で、堤外見取場として畑二町四反余があり、元禄郷帳では一千四五〇石余、天保郷帳では一千五八七石余と増加している。


稲荷新田村
いなりしんでんむら

[現在地名]関城町稲荷いなり

黒子くろご村・つじ村の南に位置し、周辺は小貝こかい川右岸の低地帯である。永享一二年(一四四〇)八月三日の上杉清方禁制(法雲寺文書)に「常州法雲寺并正受菴領同国関郡内水飼戸郷・同久下田・同稲荷荒野・同伊佐郡内小節木等事」とある関郡稲荷荒野は、開村前の当村と想定される。戦国時代には多賀谷氏の勢力下に入ったとみられるが、独立したのはやや時代が下るらしく、黒子・辻・梶内かじうち木戸きどなど隣村が古河藩領としてみえる「寛文朱印留」には村名がない。


稲荷新田村
とうかしんでんむら

[現在地名]前橋市稲荷新田町大利根町おおとねまち

北は箱田はこだ村と後家ごけ村の飛地、東は上新田かみしんでん村・下新田村、南は京目きようめ(現高崎市)、西は川曲かわまがり村。元和五年(一六一九)の安藤対馬守殿御領分高覚帳(東大史料編纂所蔵)では高二九二石一斗余、内訳は田方二五町九反余・畑方一〇町二反余で、高崎藩領であった。正徳年間(一七一一―一六)の植野堰最初掘立御普請書(武井文書)に「御料所分」と記され、幕府領で全村高が植野うえの堰の用水を利用していた。明和元年(一七六四)の所領并御城付道具明細書上(「無銘書」所収)によれば、高崎藩領である。江戸後期の家数二二(御改革組合村高帳)。明治三年(一八七〇)唐沢からさわ堰に関する用水出入済口議定証文(関根文書)が交わされ、沼田藩・高崎藩・前橋藩領の関係諸村が署名しており、高崎藩の稲荷新田村も扱人に名を連ねている。


稲荷新田村
いなりしんでんむら

[現在地名]弥富町稲荷

東はいかだ川、西は狐地きつねじ新田村に接し、川と海に囲まれた新田村。「徇行記」によれば、村高二八九石余はすべて蔵入地で、田は一三町六反余、畑は一町四反六畝余。延享五年(一七四八)六月の証文(「徇行記」所収)によれば、元禄一〇年(一六九七)知多郡の又右衛・忠左衛門によって開田されたが、宝永五年(一七〇八)・同六年・同七年の堤大破により亡所となった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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