穂浪郡・穂波郡(読み)ほなみぐん・ほなみぐん

日本歴史地名大系 「穂浪郡・穂波郡」の解説

穂浪郡・穂波郡
ほなみぐん・ほなみぐん

筑前国東部中央に位置し、東は嘉麻かま郡、南は夜須やす郡、西は御笠みかさ郡・糟屋かすや郡、北は鞍手くらて郡に接する。近世の郡域はおよそ現嘉穂かほ郡の西部にあたる穂波町桂川けいせん町・筑穂ちくほ町および飯塚市の大部分に相当する。

〔古代〕

穂波郡と記される場合が多い。「延喜式」民部上、「和名抄」諸本に穂浪とみえ、文字の異同はない。九条家本「延喜式」の傍訓「ホナミ」、「和名抄」の穂浪郡穂波郷の訓から「ほなみ」と読む。「日本書紀」安閑天皇二年五月九日条に、筑紫穂波屯倉(現穂波町太郎丸を中心とした地域に比定)が置かれたことがみえる。平城京跡で発見された二条大路木簡中の付札木簡(平城宮概報二二)にみえる「筑紫大宰進上筑前国穂波」が郡名の初見と考えられるが、確実な年紀を伴うものは、延喜五年観世音寺資財帳の和銅四年(七一一)一〇月二五日の太政官符により施入された穂浪郡の六町の熟田、および八町一段二六八歩の墾田の条里坪付を記す部分である。それとは別に当郡には観世音寺(現太宰府市)高田たかた(現穂波町)も所在し、その関係文書である保安元年(一一二〇)六月二八日の観世音寺公験案「高田庄公験」(東大寺成巻文書/平安遺文一の二四六―二五〇号)を手掛りに条里復原が行われている。郡家を現穂波町秋松あきまつの小字郡毛ぐんげ(字小名調)に比定する説がある。郡司関係として、天慶三年(九四〇)三月七日の笠小門治田売券案(前掲二四六号)は主帳秦のほか、検校穂浪吉志、延長六年(九二八)一〇月二八日の時点で前郡老であった穂浪幸生、同七年三月二一日の時点で前弩師であった穂浪後生など、穂浪の名を負う一族が有力者として存在していたことを示す。貞観一一年(八六九)一〇月一五日の筑前国田文所検田文案(早稲田大学所蔵文書/平安遺文一)にも、名は知られないが頭として穂浪がおり、書生穂浪常吉もみえる。延長元年八幡神が当郡の大分だいぶ(現筑穂町の大分八幡宮)から那珂なか郡の筥崎宮に遷座したと伝える。「和名抄」によれば三坂みさか薦田こもだ土師はじ堅磐かたしま・穂波の五郷が存在したほか、伏見ふしみ郷の存在も知られる。

〔中世〕

平安期以降の当郡は穂浪北郷・穂浪南郷に分割されており、その境界は太郎丸たろうまる(現穂波町)以南と推定される。平安期以降、遠賀おんが川流域の平野部を中心に多数の庄園・寺社領が形成されており、延勝えんしよう(現京都市左京区)領穂浪庄(現穂波町)、観世音寺領長尾ながお(現筑穂町)高田たかた庄、安楽寺(太宰府天満宮)土師庄・土井とい(現桂川町)、宇佐宮領椿つばき庄・椿新庄(現穂波町)・大分庄(現筑穂町)、宇佐弥勒寺領薦田別符(現飯塚市)などが確認されるが、概して庄園経営の実態については不明な点が多い。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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