穴村(読み)あなむら

日本歴史地名大系 「穴村」の解説

穴村
あなむら

[現在地名]加計町穴

坪野つぼの村の北東に位置し、村の南端を太田おおた川が東流する。太田川に北から支流西宗にしむね川が合流する付近から、西宗川に沿って両岸に開けた谷底平野および河岸段丘上に集落が散在する。時期は不明であるが、上穴村・下穴村に分村したり、村名も「安名村」と記されたりしたという(国郡志下調書出帳)。また初め佐西ささい郡に属していたが、寛文四年(一六六四)四月、佐西郡の佐伯郡への郡名変更の際に山県郡に移った。佐西郡では山陽道の助郷役を負担する必要があったが、郡の中心廿日市はつかいち(現佐伯郡廿日市町)に遠いため当村からの出役負担は困難であると願出て、所属替になったという(同書出帳)地名は、享禄四年(一五三一)閏五月九日付の毛利元就証状(吉川家文書)に「阿那」とみえる。


穴村
あなむら

[現在地名]草津市穴村町

新堂しんどう村の西に位置。蘆浦あしうら道が南北に抜け、その西側に集落が立地。「日本書紀」垂仁天皇三年三月条に「天日槍(中略)菟道うぢ河より泝りて、北近江国の吾名邑あなのむらに入りて暫く住む」とあり、当地をこの吾名邑にあてる説がある。また当地および野村のむら町に安羅やすら神社が鎮座することから、「近江国注進風土記」にみえる栗太くりた郡の安良やすら郷を当地付近とする説がある。「栄花物語」巻一〇の長和元年(一〇一二)一一月二二日大嘗会歌に「諸人の願ふ心の近江なる安良の里の安らけくして」とある。元亀三年(一五七二)穴村惣代は一向一揆に内通しない旨の起請文を出した(→草津市。寛永石高帳では高四五四石余、山城淀藩領・旗本木下領。


穴村
えびあなむら

[現在地名]弥彦村

東を西にし川が北へ流れる井田いだ丘陵北端沿いにあり、北は夏井なつい(現岩室村)南西井田村。正保二年(一六四五)頃井田村の平沢源兵衛によって開発が始められ、寛文五年(一六六五)穴と改称したという。元禄郷帳矢作やはぎ村枝郷として穴新田村とみえ、高八一石一斗余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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