立見 尚文
タツミ ナオブミ
明治期の陸軍大将,男爵
- 生年
- 弘化2年7月19日(1845年)
- 没年
- 明治40(1907)年3月6日
- 出生地
- 江戸・八丁堀
- 出身地
- 三重県桑名市
- 旧姓(旧名)
- 町田
- 経歴
- 桑名藩士の三男として江戸桑名藩邸に生まれ、立見家の養子となる。江戸昌平黌に学び、京都に出て藩の周旋方となった。戊辰戦争では幕府軍に投じ雷神隊を率いて越後、長岡、会津と転戦した。のち司法省出司を経て、陸軍に転じ、西南戦争に従軍。明治27年陸軍少将となり、歩兵第10旅団長として日清戦争に出征した。その後、陸軍大学校長、台湾総督府軍務局長、同幕僚参謀長を経て、31年中将となり、38年日露戦争では黒溝台、沙河に戦い、39年大将に昇進した。土屋新之助「立見大将伝」がある。
出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報
Sponserd by 
立見尚文
没年:明治40.3.6(1907)
生年:弘化2.7.19(1845.8.21)
明治期の陸軍軍人。桑名藩士町田伝太夫の3男。幼時,同藩士立見家の養子。官軍に抗する桑名藩雷神隊の隊長を務める。越後長岡で山県有朋の陣営を急襲,以来山県は立見に頭が上がらなかったという。西南戦争では新撰旅団参謀副長。日清戦争では歩兵第10旅団長。30年弘前の第8師団長となり,在職6年新師団の育成に努めた。35年1月麾下第5連隊の「八甲田山雪中行軍」では211人中199人の凍死事件が起こっている。日露戦争では黒溝台の会戦で活躍。奉天会戦中に病を得たが大将に進む。東洋一の用兵家といわれた。<参考文献>桜井忠温編『類聚伝記大日本史』14巻
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
Sponserd by 
立見尚文 たつみ-なおぶみ
1845-1907 幕末-明治時代の武士,軍人。
弘化(こうか)2年7月19日生まれ。伊勢(いせ)(三重県)桑名藩士。戊辰(ぼしん)戦争では雷神隊を組織して新政府軍とたたかう。のち陸軍にはいり西南戦争,日清(にっしん)戦争に出征,日露戦争では第八師団長。明治39年陸軍大将。明治40年3月6日死去。63歳。本姓は町田。通称は鑑三郎。
出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例
Sponserd by 