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童貫 どうかんTong Guan; T`ung Kuan

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

童貫
どうかん
Tong Guan; T`ung Kuan

[生]?
[没]靖康1(1126).7.27.
中国,北宋の徽宗朝の宦官宰相蔡京と結んで勢力を得た。西夏と接する北西辺の経略を行い,また方臘の乱 (農民反乱) を鎮定するなど軍政に活躍した。燕雲地方の回復を意図したが,宣和4 (1122) 年大軍を出して大敗し,かえって軍の燕雲地方進出を許すことになり,さらには金軍の南下を引起すことになった。その十大罪が数え上げられて殺された。

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世界大百科事典 第2版の解説

どうかん【童貫 Tóng Guàn】

?‐1126
中国,北宋徽宗朝の宦官,寵臣。開封(河南省)の人。字は道輔,道通。蔡京に宰相就任の機会を与えた因縁で引き立てられて勢力を得た。1111年(政和1),燕京の人馬植(ばしよく)(のちの趙良嗣)を朝廷にすすめて,遼の領土に入っている燕雲地方を回復する計画を立てさせた。これが宋・金同盟に発展,彼自身も燕京攻撃に派遣されたが失敗,金軍の開封攻撃という国難を招き,国賊の名をきせられ,英州(広東省)に流され,途中で殺された。

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世界大百科事典内の童貫の言及

【蔡京】より

…彼は旧法党の勢力挽回を恐れ,司馬光以下の人々を元祐党籍(げんゆうとうせき)に入れ,その子孫が栄進の機会をえるのを防ぎ,名実ともに新法党の首領としての貫禄を示した。のち,早くから因縁のあった宦官童貫と結託し,徽宗にすすめて,金と結んで遼を夾攻するという計略を実行させたが,宋が背約の行為をあえてしたので,その結果,強力な金軍の来攻をうけた。そのため,徽宗退位後,国難を招いた六賊の筆頭にあげられて失脚し,儋州(たんしゆう)(広東省海南島)の配所にいく途中,潭州(たんしゆう)(湖南省)で病死した。…

※「童貫」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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