蔡京(読み)さいけい(英語表記)Cài Jīng

精選版 日本国語大辞典 「蔡京」の意味・読み・例文・類語

さい‐けい【蔡京】

中国北宋政治家書家。字(あざな)は元長。徽宗宰相となり、王安石新法を復し保守派を弾圧した。靖康の変(一一二七)の原因になる金の来攻を招き、国を危くした六賊の第一にあげられて失脚。書家として弟の卞(べん)と共に知られ、二王(王羲之、王献之)に迫るといわれた。(一〇四七‐一一二六

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改訂新版 世界大百科事典 「蔡京」の意味・わかりやすい解説

蔡京 (さいけい)
Cài Jīng
生没年:1047-1126

中国,北宋の政治家。興化仙遊(福建省)の人。字は元長。熙寧3年(1070)の進士に合格。哲宗の元祐年間(1086-94)司馬光が用いられて旧法(保守政策)が復活すると,知開封府の地位にあった蔡京は,わずか5日間で新法(革新政策)をやめて旧法にきりかえて司馬光をよろこばせた。諸方の地方官をつとめたのち,1094年(紹聖1)権戸部尚書となって中央に帰り,徽宗に新法復活の意のあることを知ってこれに取り入り,1102年(崇寧1)尚書左丞を拝し,間もなく右僕射,翌年には左僕射に進んだ。以後4回(1102-06,1107-09,1112-20,1124-26)通計16年近く宰相の地位を保ち,ことに16年(政和6)4月から20年(宣和2)6月までは宰相の上に位して,総治三省事を命ぜられ,自ら公相(こうしよう)と号した。その間に深くその勢力を扶植し,子の蔡鞗(さいちよう)が徽宗の女を妻とするに至り権勢ならびなきありさまであった。彼は旧法党の勢力挽回を恐れ,司馬光以下の人々を元祐党籍(げんゆうとうせき)に入れ,その子孫栄進の機会をえるのを防ぎ,名実ともに新法党首領としての貫禄を示した。のち,早くから因縁のあった宦官童貫と結託し,徽宗にすすめて,金と結んで遼を夾攻するという計略を実行させたが,宋が背約の行為をあえてしたので,その結果,強力な金軍の来攻をうけた。そのため,徽宗退位後,国難を招いた六賊の筆頭にあげられて失脚し,儋州(たんしゆう)(広東省海南島)の配所にいく途中,潭州(たんしゆう)(湖南省)で病死した。

 蔡京の本領は,政治家としてよりも,むしろ文化人として発揮され,徽宗をたすけて北宋文化の興隆に寄与するところが大であった。弟の蔡卞(さいべん)(?-1117)とともに能書をもって聞こえ,また鑑識にも秀でていた。書は初め北宋,のちしだいに唐の書を学び,さらに王羲之・王献之にせまったといわれ,とくに,大字,行書によく,権勢をほこった大官らしく,《大観聖作碑》の額など,悠々とした精彩のある作品が多い。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「蔡京」の意味・わかりやすい解説

蔡京
さいけい
Cai Jing; Ts`ai Ching

[生]慶暦7(1047)
[没]靖康1(1126).7.21. 潭州(長沙)
中国,北宋末の政治家。興化仙游 (福建省仙游県) の人。字は元長。煕寧3 (1070) 年の進士。新旧両派間を巧みに遊泳して,崇寧1 (1102) 年尚書右僕射兼中書侍郎 (宰相) となる。前後4回 (02~06,07~09,12~20,24~26) 政権を握ったが,蓄財のみを考えて政治的信念なく,民から過酷な税を取立ててみずからは栄華をきわめ,その一部をさいて徽宗の奢侈費に供し,帝のうしろだてで反対派を抑圧した。在任中の旧法党に対する圧迫は有名。軍の南下に際しその罪を問われ,海南島に流される途中,潭州で没した。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「蔡京」の意味・わかりやすい解説

蔡京
さいけい
(1047―1126)

中国、北宋(ほくそう)末の政治家。字(あざな)は元長。興化仙游(こうかせんゆう)(福建省仙游県)の出身。1070年進士に及第。第8代皇帝徽宗(きそう)に仕え、4回にわたって政権を掌握した。新法を復活したので有名であるが、政治方針に確固たる信念があったわけではない。たとえば、司馬光が旧法を復活するといち早くこれに従ったエピソードも伝えられており、時の権力者に迎合しつつ、巧みに身を処して権力を握ったのである。弟の卞(べん)(1058―1117)とともに、能書家としても有名で、文化趣味の徽宗に取り入り、宦官(かんがん)の童貫と結託して政権を独占した。新興の金と結んで遼(りょう)を滅ぼしたが、同時に金の侵攻を受けて北宋の滅亡を招いた。徽宗退位後に国賊6人の筆頭として、配流の途中に没した。

[伊原 弘]

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世界大百科事典(旧版)内の蔡京の言及

【花石綱】より

…中国,北宋第8代皇帝,徽宗(きそう)時代,江南地方に課せられた特殊な負担。花(珍木)・石(奇石)を好んだ徽宗に迎合した宰相蔡京(さいけい)が,宦官朱勔(しゆべん)らに命じて江南地方に花石をもとめ,船団を組んで運河を北上して国都へ送らせた。これを花石綱と呼ぶ。…

【徽宗】より

…太后摂政中は,新(革新政策),旧(保守政策)を折衷した政治を行ったが,太后が没して親政すると,父神宗の断行した新法を採用した。しかし,政治には熱心でなく,蔡京(さいけい)を信任してまかせきりにし,豪奢な生活をして国費をついやした。その時,女真族が遼(契丹)の支配を脱して東北地方に金国を建てた。…

【宋】より

…やがて哲宗が親政すると,今度は新法党人を起用したが,彼らは改革よりは反対派に報復することに力を注いだので,新旧両党の争いに拍車をかけることになり,政治の混乱を招いた。加えて事実上の北宋最後の皇帝となった徽宗は,政治のことは宰相の蔡京にまかせて,日夜遊興にふけり,書画骨董の収集に熱中し,豪壮な宮殿,庭園,道観等を造営したりして,莫大な金銭を使った。その補塡のために,蔡京はあらゆる手段を用いて誅求を行い,人民を苦しめたので,浙江の方臘(ほうろう),山東の宋江はじめ各地で反乱が勃発し,政府はその鎮圧に手をやいた。…

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