11~13世紀にかけてタングート族が築いた国家。中国の西北部,寧夏,甘粛,オルドス,陝西の諸地域を領有した。
唐・五代にわたり,中国西北辺境で発展を重ねたタングート族は,宋初に入って夏州李氏の間に内訌の続いた結果,定難軍節度使,李継捧(?-1004)は所管の夏・銀・綏(すい)・宥(ゆう)4州を宋に献じたが,これに反対する族弟,李継遷(963-1004)は宋への抗戦を始め,しだいに故地を回復し,1002年(咸平5)には西北の要衝,霊州を陥れ,西平府と改称してここへ移り,河西方面への突破口を開こうとした。李継遷の後をうけたその子,李徳明は宋・遼との衝突をさけ,もっぱら宋との経済外交に努め,07年(景徳4)には榷場(官営貿易場)貿易の開始に成功した。さらに河西へ進出して河西ウイグルの商業貿易権を奪取せんとしたが,これには河西ウイグル自身の抵抗はもとより,同様に河西進出をねらう遼の妨害工作があったうえに,湟水(こうすい)流域(青海省西部)には唃厮囉(こくしら)のもとに統合された青唐吐蕃が反抗を示した。しかしこれらの障害を排除しつつ,河西経略が進められて,その子,李元昊(りげんこう)にひきつがれた。李元昊は河西各地を収めたのち,独立意識に燃えて国家建設に着手し,興州を興慶府と改めて都とし(現在の寧夏回族自治区銀川市),宋制にならって文武の官制をたて,年号をたて,兵制を定めて十二監軍司などを設けて防衛を固めた。38年(天授礼法延祚1),皇帝を称し,国号を大夏と定めた。宋の北西に当たるため,宋では西夏といった。
やがて青唐吐蕃の勢力を制圧したのち,宋に対し全面的攻勢に出た。宋軍は敗北を重ねつつも,応戦につとめ,交戦は長期化する形となった。この間,遼は宋の窮境につけこんで策動した。やがて宋・夏2国は戦いに疲れ,44年に和約が結ばれて,李元昊は臣礼をとって宋帝に誓表を出して夏国王と称すること,宋は毎年絹15万3000匹,銀7万2000両,茶3万斤を歳賜などの名目で与えること,榷場2ヵ所を設けて互市を行うことなどが定められた。しかし宋・夏の和平関係は永続せず,李元昊の子,毅宗李諒祚(在位1048-67)の末年には夏軍の進攻が続き,唃厮囉の死後,分裂した吐蕃諸族はその支配下に入るかにみえた。これに対し,吐蕃諸族を招撫し,さらに西夏の本拠をつく足場を作るべく行われたのが,71年(煕寧4)以降に行われた王韶の煕河経略であった。さらに81年,恵宗李秉常(りへいじよう)時代(在位1068-86)の西夏の内訌に際し,宋は大兵を投入して西夏攻撃に出たが失敗に終わった。長期にわたる交戦状態により,宋の軍事費はおびただしく,宋の重大問題となった。遼金抗争にあたり,西夏は初め遼を助けたが,1124年(元徳6)以後,金について宋を攻めた。このころ,その領域は陝西北部,オルドス東部にのび,37年(大徳3)湟水流域をも加えて西夏の最大版図となった。
宋の南渡により,宋・夏の争いは終わり,金・夏の関係もほぼ平静であったので,西夏は崇宗李乾順(在位1086-1139)より仁宗李仁孝(在位1140-93)にかけて,内政は充実した結果,経済的発展と文化興隆は著しいものがあった。桓宗李純佑(在位1194-1205)の末年より,モンゴルの侵入が始まり,次の襄宗李安全(在位1206-11)はモンゴル軍に首都を囲まれて和を請い,モンゴルとむすんで金を攻めたが,やがてモンゴルの徴発と攻撃に苦しみ,献宗李徳旺(在位1223-26)は1225年(乾定3),金とむすんでモンゴルに当たらんとした。そのうえ,モンゴルの仇敵,ナイマン部のチルカサングンの来投をいれ,またモンゴルの質子提出の要求を断ったため,チンギス・ハーンみずから来攻し,カラ・ホト(黒水城),甘州,涼州に続いて首都興慶府も陥り,国王李睍(りけん)は殺されて西夏王国はほろんだ(1227)。
西夏の主体を占めるタングート族は元来遊牧民で,原住地の飼畜はヤク,羊,馬,驢(ロバ),豕(ブタ)などであったが,東方の低地への移動に伴い,牛,羊,馬,ラクダなどに変わった。また農業は主として漢人により行われ,河西(甘・涼など)地域,興・霊諸州の黄河流域,屈野河(陝西北部)流域などが生産地であった。興・霊2州方面ではやがてタングート族自体の農耕化もすすんだ。農耕は農田司が,遊牧は群牧司がそれぞれ管轄した。さらに注目されるのは,西夏はその占める地理的位置を利して,西方と宋・遼・金の間に仲介貿易を盛んに行い,大きな利潤を得た点であり,これは西夏国の経済を大きく支えるものであった。また榷場貿易ではラクダ,馬,牛,羊,毛氈などのほか,甘草,蜜蠟などを輸出して,絹織物,香薬,磁器,漆器などを輸入した。
李元昊は西夏文字の創造に独立意識を燃やし,この文字を公布した広運3年(1036)を記念して,年号を大慶元年と改めた。以後,西夏国の公用語は,おそらくそれまで使われた漢語に替わって西夏語となり,公用文字は西夏文字に定められた。西夏政府は西夏語を整理し,西夏文字を普及すべく,語彙を分類した辞典と,音韻組織に従って文字を配列し,意味の注をつけた字書の2系統の書物を作って公刊した。現存するそれらの残巻は,やや時代の下った,崇宗・仁宗の時代のものである。
2代毅宗より3代にわたる皇帝はいずれも幼くして即位したため,その母后が摂政の位についた。母后が摂政のときは蕃礼が重んじられ,漢礼を厭うたが,皇帝が長じて親政の世となると,儒学を盛んにした。とくに崇宗以降,西夏全盛期の文化政策は,初期の漢礼忌避の時期から,積極的に儒学を受容する方向に転じ,学者たちは中国の古典,さらにいくらかの史書,兵法書を西夏語に訳し,西夏文字でそれらを書き表した。
崇宗・仁宗の時期はまた,仏教がもっとも栄えたときであり,政府は和尚功徳司,出家功徳司,求法功徳司といった役所を設けて仏教の隆盛を援助した。西夏は1100年までに少なくとも6回宋朝より大蔵経を下賜された。その西夏語への翻訳は,(1)3代恵宗と皇太后梁氏の訳本,(2)4代崇宗と皇太后梁氏の訳本,(3)5代仁宗の校訂本という3段階を経て行われ,(3)の時期には西夏大蔵経を作り出そうとの試みがあったとされている。また西夏訳経論には,仏教用語が漢字からの音訳のものとチベット語に近いものとの2種類がある。前者は興慶府を中心とする地域で使われ,後者は涼州,甘州,そしてチベット仏教圏の沙州で流布した。このチベット風の経典が仁宗の時代に中国風に統一されたのは,西夏の中央権力の地方への浸透ぶりと,西夏大蔵経をめざして訳語の統一が行われた結果だとされている。このように仁宗のとき,儒仏二教は栄え,当代の傾向は開化主義ともいうべき様相を呈し,漢文化に涵養された人々が国家の中枢に多くいた。このころ,1149年(天盛1)前後に西夏国最初の法典,《天盛旧改新定禁令》が編纂されたのは決して偶然のできごとではなかった。法典の全容はまだ公開されないが,一部明らかになったところよりして,中国法典の影響の下に成立したものらしく,宋との直接交渉を絶たれ,金国文化をもっぱら吸収した当時のこととて,金の中国風法典の影響があげられよう。さらに西夏ではこののち,光定壬申新法(1212),猪年新法(1215)の2法典の成立をみたが,それらはすでにモンゴルの侵入の開始せられた,西夏末期の緊急時のことであった。
執筆者:岡崎 精郎
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中国の西北地域(いまの甘粛(かんしゅく)・オルドス地方)に、1032年からチンギス・ハンに滅ぼされる1227年まで、ほぼ200年間続いたタングート人の国家。李継遷(りけいせん)、徳明(とくめい)を経て、李元昊(りげんこう)の時代に大夏(たいか)皇帝と称し、宋(そう)の支配から完全に離脱して、当時の夏州、銀州など10数州にわたる地域を領有し、東は宋、北は契丹(きったん)(遼(りょう))、西はウイグル、南はチベットに接する西夏王国が建設された。公用語を西夏語、公用文字を西夏文字と定めた。西夏文字は1036年に公布され、以後400年余り使われた。漢字を擬してつくられ、独特の形態と複雑な構成法をもっていて、全体で6000を大きく上回る文字がある。いまは大部分の発音と意味がわかっている。刻字司(印刷局)は、文字普及のため、単語集や音韻組織を整理した韻書など多くの書物を刊行した。
西夏は東西交通の要路にあたり、貿易の利益を独占した。国土は農耕地域と遊牧地域に大別され、牧畜と農耕を主要産業として、塩池の産塩も重要産物の一つであった。建国当初は宋の官制を模倣したが、しだいに独自の体制をつくりあげた。西夏語で書かれた法典『天盛旧改新定禁令』(1149)、『(光定壬申(じんしん))新法』(1212)、『猪年(ちょねん)新法』(1215)が残っている。官職は、文官、武官ともに上司、中司、下司の3階級に分けられた。郡県制度ははっきりしないが、4府、11州、7郡、6県、8鎮(ちん)の名が西夏文の記録にある。一般には、ボン教と通じる土着宗教が浸透していたが、上層部では儒教が崇(あが)められ、『論語』『孟子(もうし)』なども西夏語に訳されている。仏教も栄え、政府は、和尚(おしょう)功徳司、出家功徳司といった役所を設けて、仏教の隆盛を援助した。寺院や塔が各地に建立され、チベット風の仏教美術絵画がハラ・ホトや敦煌(とんこう)で発見されている。多種類の経典が漢訳やチベット訳から西夏語に翻訳され、禅籍も『禅源諸詮(せん)集都序』をはじめ、少なからず西夏文になっている。文学では『新集金砕掌置文(きんすいしょうちぶん)』『新集錦合道理』などの創作が残っている。
[西田龍雄]
『西田龍雄著『西夏文字』(1980・玉川大学出版部)』
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1038~1227
チベット系タングートが中国西北部に建てた国の宋での呼び名。タングートは9世紀の初めオルドスの夏州を中心に強力となり,黄巣(こうそう)の乱を討った功績で唐から李姓を与えられた。その子孫の李継遷(りけいせん)は霊州を宋から奪って(1002年),西方に拡大した。さらに李元昊(りげんこう)は河西方面を攻略して内陸東西交易路を抑え,皇帝となって(1038年)国号を大夏(たいか)とし,都を興慶府(こうけいふ)(銀川)とした。宋と戦ったあとに和議を結び,宋に臣下の礼をとる一方,宋から毎年絹,銀,茶を贈られることになった(1044年)。契丹(きったん)に代わって金が華北に進出すると,これに服属しながらも貿易実利を優先させた。しかしチンギス・カンのたび重なる攻撃を受け,1227年に滅亡した。中国文化の影響を受けたが,仏教文化を基調とする独自の文化を発達させ,西夏文字をつくった。
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…そのころ西北辺にはタングート族が興起し,東西貿易の利を占めて強大となり,1038年(天授礼法延祚1)ついに独立して大夏国を建てた。宋側はこれを西夏とよんだ。西夏もまたしばしば宋の領内に侵入したので,仁宗は大軍を派遣して,4年間もこれと戦ったが,勝利をおさめることができなかった。…
…中国,西夏第1代の皇帝。諡(おくりな)は武烈。…
※「西夏」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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