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徽宗 きそうHui-zong; Hui-tsung

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

徽宗
きそう
Hui-zong; Hui-tsung

[生]元豊5(1082).10.10. 開封
[没]紹興5(1135).4.21. 五国城
中国,北宋の第8代皇帝 (在位 1100~25) 。靖康1 (26) 年,軍の攻撃を受けて国都開封は陥落,みずから欽宗とともに捕虜となり (→靖康の変 ) ,紹興5 (35) 年五国城に幽死した。政治才能は乏しかったが,詩文書画などにすぐれた才能を示し,北宋詩壇の代表であるほか,造園,建築にも造詣が深く,また古美術の大収集家としても知られている。またほかに大晟府という楽寮を設置して音楽を奨励したり,王立美術学校を建て,画院を整備して画家を保護し,みずからも花鳥画に特異な才能をみせ,また書をよくして痩金 (徽宗の雅号) 体を創始した。

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デジタル大辞泉の解説

き‐そう【徽宗】

[1082~1135]中国、北宋第8代の皇帝。在位1100~1125。名は佶(きつ)。書画の名手として知られ、文化・芸術を保護奨励したが、政治力なく国政は乱れ、の侵入に際し帝位を子の欽宗(きんそう)に譲位、のち親子とも捕らえられ、今の黒竜江省で死去。

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百科事典マイペディアの解説

徽宗【きそう】

中国,北宋第8代の皇帝(在位1100年―1125年)。名は佶(きつ)。旧法党を排し,父帝神宗の新法を断行したが,政治に不熱心で,佞臣(ねいしん)を重用して国費を乱費したため民生を圧迫,農民暴動をひき起こした。
→関連項目院体画花鳥画高宗(宋)水滸伝

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世界大百科事典 第2版の解説

きそう【徽宗 Huī zōng】

1082‐1135
中国,北宋第8代の皇帝。在位1100‐25年。姓名趙佶(ちようきつ)。第6代皇帝神宗の第11子。母はその侍御陳氏。兄の第7代皇帝哲宗の病死後,向太后(しようたいこう)(神宗の皇后)の支持をうけて帝位についた。太后摂政中は,新(革新政策),旧(保守政策)を折衷した政治を行ったが,太后が没して親政すると,父神宗の断行した新法を採用した。しかし,政治には熱心でなく,蔡京(さいけい)を信任してまかせきりにし,豪奢な生活をして国費をついやした。

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大辞林 第三版の解説

きそう【徽宗】

1082~1135) 中国、北宋の第八代皇帝(在位1100~1125)。神宗の子。新法を採用し、蔡京さいけいらを重用。靖康せいこうの変で金軍の捕虜となり、五国城(黒竜江省)で没した。道教を尊崇し、詩文書画をよくした。 → 靖康の変

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

徽宗
きそう
(1082―1135)

中国、北宋(ほくそう)の第8代皇帝(在位1100~25)。名は佶(きつ)。第6代神宗の第11子であるが、兄の第7代哲宗に子がなかったので、哲宗の死後、帝位についた。初め向(しょう)太后が摂政となり、新法と旧法とを折衷する政治を行ったが、翌年太后が亡くなって親政すると、新法を継承して、旧法党の官僚を徹底的に弾圧した。しかし政治にはあまり熱心でなく、宰相蔡京(さいけい)の勧めに従って豪奢(ごうしゃ)な生活を送り、遊興の費用を賄うために人民に重税を課した。なかでも、江南から奇石珍木を徴発して都に運ばせた、いわゆる花石綱(かせきこう)は江南の民衆を苦しめ、方臘(ほうろう)の乱(1120~21)を引き起こす原因になった。また山東一帯では、『水滸伝(すいこでん)』で有名な宋江(そうこう)らの反乱が起こった。そのころ東北地方にいた女真(じょしん)族が遼(りょう)の支配を脱して独立、金(きん)を建国し、南に侵入して遼を滅ぼし(1125)、さらに南下して都の開封(かいほう)に迫った。そこで位を子の欽宗(きんそう)に譲り、教主道君皇帝と号した。翌1126年、再度の金軍の侵攻を受けて開封は陥落(靖康(せいこう)の変)、彼は欽宗とともに捕虜となって北に送られ、五国城の配所で没した。政治の才能はなかったが、詩文をよくし、書では痩金体(そうきんたい)とよばれる独特の書体を創始し、画でも院体画の大家であって、その花鳥画はわが国の大名たちにも愛された。また全国から書画、骨董(こっとう)を収集して、古器物研究の風を興し、宮廷に書画学を設けて芸術家の養成に努めるなど、文化の保護に力を入れたので、宣和(せんな)時代とよばれる美術の黄金時代がつくられた。[竺沙雅章]

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367日誕生日大事典の解説

徽宗 (きそう)

生年月日:1082年10月10日
中国,北宋の第8代皇帝(在位1100〜25)
1135年没

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世界大百科事典内の徽宗の言及

【院体画】より

…元豊の改正が画院にいかなる変革を与えたかは明らかでない。徽宗の崇寧3年(1104),算学書画学が建てられ,米芾(べいふつ)が書画学博士となった。1106年書画算医学が廃止され,書画学のみ国子監に付して博士1人がおかれ,07年(大観1)には定員を30人とし,両斎に分けて士流と雑流とを区別し,10年には,書学生を翰林書芸局に,画学生を翰林図画局に入れて,学官・人吏を省いた。…

【金石学】より

…現存する最古の青銅器図録は1092年(元祐7)の呂大臨(1042?‐90?)の《考古図》で211点の古銅器の器形と銘文解釈が試みられている。呂大臨より30年のち,徽宗皇帝が鋭意収集した青銅器をもとに《宣和博古図》30巻が作られた。古銅器の名称は,現在でもこれに依拠する部分が多い。…

【宋代美術】より

…この選択と彼の作画態度には文人墨戯の影響が色濃い。蘇軾,米芾,李公麟をはじめとする文人たちの絵画界への積極的な参加と,そこで形成された絵画観は,彼らと交渉のあった宮廷画家郭熙を通して画院(翰林図画院)にも影響し,同時に趙令穣,王詵(おうせん)ら貴族たちの細緻な画風とも結びついて,さらに徽宗の指導も加わって詩的な暗示的表現に富む院体画風を成立させる。この時期の画院における李唐は対象を単純明快な形態に還元させる新傾向を提示し,それはのちに馬遠,夏珪(かけい)によって南宋院体山水画の典型へと展開していく。…

※「徽宗」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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