徽宗(読み)キソウ(英語表記)Huī zōng

デジタル大辞泉 「徽宗」の意味・読み・例文・類語

き‐そう【徽宗】

[1082~1135]中国、北宋第8代の皇帝。在位1100~1125。名はきつ。書画の名手として知られ、文化・芸術を保護奨励したが、政治力なく国政は乱れ、の侵入に際し帝位を子の欽宗きんそうに譲位、のち親子とも捕らえられ、今の黒竜江省で死去。

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精選版 日本国語大辞典 「徽宗」の意味・読み・例文・類語

き‐そう【徽宗】

中国、北宋の第八代皇帝(在位一一〇〇‐二五)。旧法党を退けて、新法を採用し、蔡京(さいけい)らを重用道教を崇拝し、国費を乱費して、農民暴動「方臘(ほうろう)の乱」をひき起こす。金の侵攻に対し、欽宗に譲位して勤王の兵を募ったが、失敗、北宋は滅びた。みずから詩文、書画をよくして、歴代皇帝中随一の文化人といわれる。(一〇八二‐一一三五

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改訂新版 世界大百科事典 「徽宗」の意味・わかりやすい解説

徽宗 (きそう)
Huī zōng
生没年:1082-1135

中国,北宋第8代の皇帝。在位1100-25年。姓名は趙佶(ちようきつ)。第6代皇帝神宗の第11子。母はその侍御陳氏。兄の第7代皇帝哲宗の病死後向太后(しようたいこう)(神宗の皇后)の支持をうけて帝位についた。太后摂政中は,新(革新政策),旧(保守政策)を折衷した政治を行ったが,太后が没して親政すると,父神宗の断行した新法を採用した。しかし,政治には熱心でなく,蔡京(さいけい)を信任してまかせきりにし,豪奢な生活をして国費をついやした。その時,女真族が遼(契丹)の支配を脱して東北地方に金国を建てた。徽宗は宦官の童貫の進言により,金と同盟して遼を挟撃し,五代の後晋以来,遼の領土になっている燕雲地方(燕雲十六州という)を回復しようと企てた。しかし宋軍は燕京(今の北京)を攻めて失敗し,雲州(大同)を攻め落とした金軍の援助を請い,燕京は金軍の手に帰した。その結果,宋は1123年(宣和5),燕京とその付近6州の地の割与をうけたが,その時結んだ約束を実行しなかったので金軍の怒りを買い,25年,宋の国都開封は金軍の攻撃をうけることとなった。金軍南下の報に接した徽宗は,あわてて皇太子(欽宗)に譲位し,道士となって(教主道君皇帝という)26年(靖康1),ひそかに鎮江江蘇省)まで逃れ,金軍北帰ののち開封へ帰った。しかし,宋は金との約束を履行しなかったので,この年開封は再度金軍の攻撃をうけて陥落した。金軍は宋室の存続を許さず,徽宗は欽宗,后妃皇族などとともに金軍の捕虜となり,北方に送られ,28年(建炎2),韓州(遼寧省八面城付近)に抑留,30年,はるか東北の五国城(黒竜江省依蘭県)に移され,35年(紹興5)この地に没し,42年,金・宋両国の和議成立とともにその遺体は宋にかえった。

 徽宗は皇帝としては失格者であったが,文化人としてはすぐれた天分に恵まれ,詩文・書は瘦金体(そうきんたい)といわれる,書画をよくした。細く鋭い一種独特の書体をひらき,後世にまで影響を与えた。画における才能はさらに大きく,崔白(さいはく)の門人呉元瑜(ごげんゆ)に学んで,従来の黄氏体に代わる新しい院体画いんたいが)をかき,一流大家に伍して遜色がない。日本人になじみのふかい《桃鳩図(ももはとのず)》のような細密花鳥画にその実力を知ることができる。徽宗はまた,皇帝として文化事業の保護奨励に熱意を示し,翰林院の書画院の作家に保護を加えて奨励し,書・画学を設けて作家の養成につとめた。とくに画院は空前の盛況を示し,宣和(せんな)時代と呼ばれる盛世を現出した。生来,書画,古器物を愛好する徽宗は,全国より名器を開封に集め,鑑賞のベテランでもある蔡京や,書・画学の博士らと鑑識,整理のうえ,内府に蔵した。このころ勅撰せられた《宣和書譜》《宣和画譜》《重修宣和博古図》などが現存するが,これらは書画,古器物鑑賞の学問を集大成したものとして高く評価される。このほか徽宗の悪政の一つに数えられている花石綱(かせきこう)も,文化史の上からみれば,またちがった評価が下される余地があるようである。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「徽宗」の意味・わかりやすい解説

徽宗
きそう
(1082―1135)

中国、北宋(ほくそう)の第8代皇帝(在位1100~1125)。名は佶(きつ)。第6代神宗の第11子であるが、兄の第7代哲宗に子がなかったので、哲宗の死後、帝位についた。初め向(しょう)太后が摂政となり、新法と旧法とを折衷する政治を行ったが、翌年太后が亡くなって親政すると、新法を継承して、旧法党の官僚を徹底的に弾圧した。しかし政治にはあまり熱心でなく、宰相蔡京(さいけい)の勧めに従って豪奢(ごうしゃ)な生活を送り、遊興の費用を賄うために人民に重税を課した。なかでも、江南から奇石珍木を徴発して都に運ばせた、いわゆる花石綱(かせきこう)は江南の民衆を苦しめ、方臘(ほうろう)の乱(1120~1121)を引き起こす原因になった。また山東一帯では、『水滸伝(すいこでん)』で有名な宋江(そうこう)らの反乱が起こった。そのころ東北地方にいた女真(じょしん)族が遼(りょう)の支配を脱して独立、金(きん)を建国し、南に侵入して遼を滅ぼし(1125)、さらに南下して都の開封(かいほう)に迫った。そこで位を子の欽宗(きんそう)に譲り、教主道君皇帝と号した。翌1126年、再度の金軍の侵攻を受けて開封は陥落(靖康(せいこう)の変)、彼は欽宗とともに捕虜となって北に送られ、五国城の配所で没した。政治の才能はなかったが、詩文をよくし、書では痩金体(そうきんたい)とよばれる独特の書体を創始し、画でも院体画の大家であって、その花鳥画は日本の大名たちにも愛された。また全国から書画、骨董(こっとう)を収集して、古器物研究の風を興し、宮廷に書画学を設けて芸術家の養成に努めるなど、文化の保護に力を入れたので、宣和(せんな)時代とよばれる美術の黄金時代がつくられた。

[竺沙雅章]


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百科事典マイペディア 「徽宗」の意味・わかりやすい解説

徽宗【きそう】

中国,北宋第8代の皇帝(在位1100年―1125年)。名は佶(きつ)。旧法党を排し,父帝神宗の新法を断行したが,政治に不熱心で,佞臣(ねいしん)を重用して国費を乱費したため民生を圧迫,農民暴動をひき起こした。1125年金に首都開封を攻撃され退位,金軍の捕虜となり幽死した(靖康(せいこう)の変)。詩文・書画をはじめ諸芸に通じ,芸術面での功績は大。古美術を収集して《宣和書画譜》を作り,画院を改善して自ら指導・制作し,画院盛況の因となった。代表作の《桃鳩図》など花鳥図にみられる精密な写実,山水画における詩情の表現は後代の模範となった。また痩金(そうきん)体の書風を創始した。
→関連項目院体画花鳥画高宗(宋)水滸伝

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「徽宗」の意味・わかりやすい解説

徽宗
きそう
Hui-zong; Hui-tsung

[生]元豊5(1082).10.10. 開封
[没]紹興5(1135).4.21. 五国城
中国,北宋の第8代皇帝 (在位 1100~25) 。靖康1 (26) 年,軍の攻撃を受けて国都開封は陥落,みずからは欽宗とともに捕虜となり (→靖康の変 ) ,紹興5 (35) 年五国城に幽死した。政治的才能は乏しかったが,詩文,書画などにすぐれた才能を示し,北宋詩壇の代表であるほか,造園,建築にも造詣が深く,また古美術の大収集家としても知られている。またほかに大晟府という楽寮を設置して音楽を奨励したり,王立美術学校を建て,画院を整備して画家を保護し,みずからも花鳥画に特異な才能をみせ,また書をよくして痩金 (徽宗の雅号) 体を創始した。

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旺文社世界史事典 三訂版 「徽宗」の解説

徽宗
きそう

1082〜1135
北宋第8代皇帝(在位1100〜25)
神宗の第11子。兄哲宗の病没にあい即位。新法を採用したが,政治は蔡京 (さいけい) らの重臣に任せ,豪奢 (ごうしや) な生活を送った。1120年には,マニ教徒の方臘による農民反乱(方臘の乱)が起こった。金と同盟して遼 (りよう) を挾撃したが,宋は金との約束を守らなかったため金の攻撃を受けた。1125年子の欽宗 (きんそう) に譲位したが,1127年開封で金軍に捕らえられ(靖康の変),北満の配所で死んだ。画院を盛んにしたほか,みずからも院体画(代表作「桃鳩図」)を描き,痩金体 (そうきんたい) の書を創始するなど文化を奨励したので,その治世は,文化史上,宣和 (せんな) 時代と呼ばれる。また道教を尊び道観を多く建てた。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「徽宗」の解説

徽宗(きそう)
Huizong

1082~1135(在位1100~25)

北宋の第8代皇帝。姓名は趙佶(ちょうきつ)。神宗(しんそう)の子。蔡京(さいけい)を重用し新法を推進,宋・による挟撃を策して,金の華北侵入(靖康(せいこう)の変)を招く。道教を崇拝し,書画をよくし,古器鑑賞に優れ,文化事業を保護奨励した。

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367日誕生日大事典 「徽宗」の解説

徽宗 (きそう)

生年月日:1082年10月10日
中国,北宋の第8代皇帝(在位1100〜25)
1135年没

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世界大百科事典(旧版)内の徽宗の言及

【院体画】より

…元豊の改正が画院にいかなる変革を与えたかは明らかでない。徽宗の崇寧3年(1104),算学書画学が建てられ,米芾(べいふつ)が書画学博士となった。1106年書画算医学が廃止され,書画学のみ国子監に付して博士1人がおかれ,07年(大観1)には定員を30人とし,両斎に分けて士流と雑流とを区別し,10年には,書学生を翰林書芸局に,画学生を翰林図画局に入れて,学官・人吏を省いた。…

【金石学】より

…現存する最古の青銅器図録は1092年(元祐7)の呂大臨(1042?‐90?)の《考古図》で211点の古銅器の器形と銘文解釈が試みられている。呂大臨より30年のち,徽宗皇帝が鋭意収集した青銅器をもとに《宣和博古図》30巻が作られた。古銅器の名称は,現在でもこれに依拠する部分が多い。…

【宋代美術】より

…この選択と彼の作画態度には文人墨戯の影響が色濃い。蘇軾,米芾,李公麟をはじめとする文人たちの絵画界への積極的な参加と,そこで形成された絵画観は,彼らと交渉のあった宮廷画家郭熙を通して画院(翰林図画院)にも影響し,同時に趙令穣,王詵(おうせん)ら貴族たちの細緻な画風とも結びついて,さらに徽宗の指導も加わって詩的な暗示的表現に富む院体画風を成立させる。この時期の画院における李唐は対象を単純明快な形態に還元させる新傾向を提示し,それはのちに馬遠,夏珪(かけい)によって南宋院体山水画の典型へと展開していく。…

※「徽宗」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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