笠原村(読み)かさはらむら

日本歴史地名大系 「笠原村」の解説

笠原村
かさはらむら

[現在地名]笠原町 音羽区おとわく栄区さかえく上原区うわはらく向島区むかいじまく神戸区ごうどく富士区ふじく釜区かまく平園区ひらそのく多治見たじみ滝呂町たきろちよう

多治見村の南東に位置し、中央を土岐川支流笠原川が平園川などの支流を集め北西に流れる。東は妻木つまぎ(現土岐市)。貞治五年(一三六六)八月三日土岐下野入道頼高宛の足利義詮御教書(土岐文書)に「妻岐郷内笠原半分」と記され、土岐頼重の文和四年(一三五五)の譲状に任せ頼高に地頭職が安堵されている。永徳三年(一三八三)には改めて足利義満から安堵の袖判下文(同文書)が出された。文亀二年(一五〇二)には土岐頼尚から子彦九郎頼明へ譲与されており、土岐明智氏に伝領されたとみられる(同年四月一三日「土岐頼尚所領譲状」同文書)

慶長六年(一六〇一)妻木氏は関ヶ原の合戦の功により、旧領地を安堵され、当村も旗本妻木領となる。万治元年(一六五八)妻木氏断絶以後幕府領となる。慶長郷帳では一千九一石余、正保郷帳では高一千六一石余、うち田高八六七石余・畑高二九三石余・小物成米(山年貢)六石余で合計は合わない。元禄郷帳では高一千二一二石余。笠原村のうち北西に位置する滝呂郷は五六石余(天保一三年「高反別仕訳帳」吉川文書)。宝暦一一年(一七六一)の村明細帳(松原文書)によれば田六六町八反余・畑一七町八反余、新田高一一石余・反別二町六反余。秣場約五町・野山約三〇町がある。家数三三〇(うち山伏六・庵三・寺三)・人数一千三三二、馬二五。用水は溜池二ヵ所に依存。農間稼は男は縄ない・莚打、女は木綿織を少々行う。

笠原村
かさはらむら

[現在地名]鴻巣市笠原

上郷地かみごうじ村・下郷地村の東、元荒川北岸の低地上にある。東は小林おばやし(現菖蒲町)と枝郷の弐貫野にかんの村、南は元荒川を隔て下谷しもや村、北はさかい(現川里村)。「和名抄」記載の埼玉郡笠原郷の遺称地とされる。「日本書紀」安閑天皇元年閏一二月条にみえる武蔵国造笠原直使主の本拠があったという(風土記稿)。「吾妻鏡」建久六年(一一九五)三月一〇日条および正治二年(一二〇〇)二月二六日条にみえる笠原六郎や笠原十郎左衛門尉親景は、笠原を名字の地とする武士と思われる。康暦三年(一三八一)四月一三日付の足利氏満御教書写(風土記稿)に「武蔵国埼西郡栢間郷内笠原村榑井在家・田畠三丁三段」とみえ、鳩井美濃三郎義景の訴えを受けた鎌倉府は、義景が買得した栢間かやま郷内笠原村榑井くれいの在家・田畠に関する調査を鬼窪某に命じている。

笠原村
かさはらむら

[現在地名]守山市笠原町

なか村の西に位置。野洲やす川南流が北を西流する。対岸は新庄しんじよう村。正和四年(一三一五)四月一二日の延暦寺西塔衆会事書(「公衡公記」同月一五日条)に笠原とみえる。同元年頃から延暦寺西塔は笠原・開発かいほつ郷の領有を鎌倉幕府に要求していたが、同四年幕府により延暦寺側の主張を認める裁定が下された(同月一五日「成運書状」同書同日条)。その後も延暦寺領として続いたらしい。永享六年(一四三四)九月二七日、足利義教政権下で山門領押使に任命されていた六角満頼は延暦寺領の笠原など五ヵ所を焼払い、山徒・山法師を殺傷した。

笠原村
かさはらむら

[現在地名]伊那市大字美篶みすず 笠原・南割みなみわり

三峰みぶ川の北側段丘上の東部山麓にある村。孤立した天神てんじん(一〇八〇・五メートル)の北部に馬場ばんば山梨やまなし北村きたむら、南西に南割の集落がある。「延喜式」に「笠原牧」とあるのが地名の初見。笠原村を中心とし西の方六道原ろくどうはら一帯(古くは安陀師野あだしのともいう)が古代の御牧で、笠原村の地名はそのなごりか。

山麓の村ではあるが、谷が浅くて沢水が乏しいので、江戸時代には堤(溜池)を作って用水を確保し、夏日の旱魃に備えた。

笠原村
かさはらむら

[現在地名]小川町笠原

元禄国絵図・元禄郷帳作成時までに竹沢たけざわ村が分立して成立した竹沢六村の一つで、飯田いいだ村の北西に位置し、西は男衾おぶすま木部きべ村。玉川たまがわ領に属した(風土記稿)。延宝元年(一六七三)の竹沢村水帳によれば笠原分は高一〇四石余、反別は田四町三反余・畑一二町一反余・屋敷四反余であった(小川町史)。元禄郷帳では竹沢を冠して村名がみえ、高は延宝期とほぼ同じ。国立史料館本元禄郷帳では幕府領。「風土記稿」成立時にも同じであったが、幕末の改革組合取調書では三卿の一、清水領。化政期の家数五〇(風土記稿)。地内に溜池はなく、用水は「山方出水」に頼っていた。

笠原村
かさわらむら

[現在地名]高浜町笠原

薗部そのべ村の南に位置する。南は笠原峠を越えて福谷ふくたに(現大飯町)へ通じる。笠原から石山いしやま(現大飯町)納田終のたおい(現遠敷郡名田庄村)を経て周山しゆうざん(現京都府北桑田郡京北町)へ出るこの街道を高浜では周山街道といい、鯖が運ばれたことから別名を鯖街道ともいっている。地名は貞治七年(一三六八)正月日付もり兵衛田地譲状(舞鶴市梅垣西浦文書)に、譲主もり兵衛の肩書として「若狭国木(津)ノ庄ノ内笠原ノ守光名ノぬ志」とみえる。

笠原村
かさはらむら

康平二年(一〇五九)七月二〇日の播磨国東大寺領畠注進状(東大寺文書)に「(賀西)郡笠原畠」二町とみえる。中世には西下郷にししもざと庄内の一村であった。貞和三年(一三四七)六月二四日の刑部守延譲状(広峯文書)に「下郷内笠原村」とある。笠原村には広峯ひろみね神社(現姫路市)の信者がおり、その檀那株が相続・売買の対象となっていた。下郷が冠記されるのは、広義の下里郷をさすものと考えられる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報