笹部村(読み)ささべむら

日本歴史地名大系 「笹部村」の解説

笹部村
ささべむら

[現在地名]川西市笹部一―三丁目・下財町げざいちよう山下町やましたちよう見野みの一丁目・笹部・大和東だいわひがし大和西だいわにし

野村の北、東猪名ひがしいな(一庫大路次川)の支流初谷はつたに川の流域に位置する。中世多田ただ庄のうち。建武元年(一三三四)八月二二日の沙弥蓮性寄進状(多田神社文書)に、蓮性が多田惣社六所権現修理料として寄進した六反半の免田に「元佐々部方一反」がある。貞和四年(一三四八)一一月二四日の左衛門尉為政遵行状(同文書)によれば、元佐々部方も一反半に増やした計七反半が寺家造営料として再寄進されている。応安元年(一三六八)四月八日の多田院金堂供養棟別銭注文(同文書)には佐々部があり、永和元年(一三七五)七月二五日の多田院諸堂造営料棟別銭郷村注文(同文書)では「佐々部村」は東西に分れ、計一〇三家と記され、いずれも棟別銭を徴収されている。


笹部村
ささべむら

[現在地名]松本市笹部

松本藩領時代出川いでがわ組の一村で、奈良井ならい川の右岸に沿い、征矢野そやの村・両島りようしま村の南にある。平坦地で南北に長い。

寛永一九年(一六四二)の信州松本御領分村々高附帳に「笹兵衛新田 百九拾九石三斗弐升八合」とある。慶安検地には笹部村となり二二六石三斗七升四合と増加した。正徳三年(一七一三)から享保一〇年(一七二五)まで野溝のみぞ組に属し、松本藩水野家の分家水野壱岐守の領分となり、同家が一万石を領するようになって水野領笹部藩の館の地となった。


笹部村
ささべむら

[現在地名]舞鶴市字笹部

朝来あせく谷最奥、若狭国境沿いに位置し、東に青葉あおば山を仰ぎ、東方はるかに内浦うちうら湾を望見することができる眺望絶佳の地。丹後から若狭に抜ける脇街道にあたっていた。

慶長検地郷村帳に高三一・〇八石「篠部村」とみえる。土目録によれば総高三一・八石、うち田方一六石余、畑方一五石余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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