仁木義長(読み)にき・よしなが

朝日日本歴史人物事典 「仁木義長」の解説

仁木義長

没年:永和2/天授2.9.10(1376.10.23)
生年:生年不詳
南北朝時代の武将。義勝の子。通称二郎四郎。右馬権助,越後守,右馬頭,右京大夫。室町幕府執事仁木頼章は兄。後醍醐天皇の建武政府が成立すると足利直義の家臣として鎌倉に出仕し,建武1(1334)年1月に関東廂番に任ぜられ武蔵富岡を領した。建武3/延元1年2月,足利尊氏が九州へ落ちるとこれに従い,鎮西各地に転戦した。室町幕府が成立すると伊勢,志摩の守護,次いで伊賀守護をあわせ,康永3/興国5(1344)年4月には侍所頭人に就任。尊氏・直義兄弟が争った観応の擾乱では尊氏方に属し,観応1/正平5(1350)年には再び侍所頭人となった。翌年10月兄頼章が幕府執事となるや,三河,遠江,備後と先の守護をあわせ6カ国国持ちの大大名となり,頼章とあわせて分国8カ国という空前の版図を形成した。しかし延文3/正平13年に尊氏が没すると仁木氏は衰運に向かい,義長の専横を憎む政敵細川清氏,土岐頼康,佐々木氏頼らは一揆してその排斥を企てるに至る。清氏,氏頼とはかつて京都の敷地や所領を巡って争い,頼康には尊氏死去の年に口論がもとで憎悪を買っていた。延文5/正平15年7月,清氏は河内の南軍討伐に名を借りて,土岐・佐々木氏と結んで義長を討とうとした。驚いた義長は将軍足利義詮身柄を拉致して抵抗しようとしたが,義詮に逃脱され,やむなく分国伊勢へ没落し,翌年南朝に下った。のち貞治5/正平21年8月の政変による斯波氏没落に伴って一時伊勢守護に復帰するが,義詮の死,細川頼之台頭同氏衰退を決定的にした。<参考文献>小要博「仁木義長排斥事件覚書」(『日本歴史』356号)

(今谷明)

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改訂新版 世界大百科事典 「仁木義長」の意味・わかりやすい解説

仁木義長 (にきよしなが)
生没年:?-1376(天授2・永和2)

南北朝時代の武将。頼章の弟。右馬権助,右馬頭,右京大夫を歴任。伊勢,志摩を主として,伊賀,三河,遠江,備後の守護も兼任。侍所頭人となること2度。義長の活動は鎌倉で始まる。1334年(建武1)に設置された関東廂番に〈仁木四郎義長〉と見え,その後36年2月の足利尊氏敗走に随従,多々良浜の戦に勝って,同年6月に上京するまでの間,菊池氏を攻撃するなど九州幕軍の総大将としての役割を果たした。上京後も幕軍の有力武将として南軍追討に活躍。観応の擾乱(じようらん)に際しては兄頼章とともに終始尊氏党に属し,乱後は幕政にいっそうの重きをなした。この前後より有力守護の台頭が顕著となり,義長は所領などをめぐって石塔頼房,細川清氏,土岐頼康,畠山国清らの諸将と対立し,60年(正平15・延文5)ついに没落して伊勢に逃れた。翌年には南朝に下るところとなったが,遅くとも67年には再び幕府へ帰順。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「仁木義長」の意味・わかりやすい解説

仁木義長
にきよしなが
(?―1376)

南北朝時代の武将。義勝(よしかつ)の子。頼章(よりあき)の弟。二郎四郎と称す。越後守(えちごのかみ)、右馬権守(うまごんのかみ)、修理亮(しゅりのすけ)、右京大夫(うきょうだいぶ)を歴任する。仁木氏は足利(あしかが)一族中の大族で、三河国額田(ぬかた)郡仁木郷(岡崎(おかざき)市仁木(にっき)町)を本拠とする一族である。南北朝内乱の初期に足利尊氏(たかうじ)に従い、1336年(延元1・建武3)の菊池武敏(たけとし)との多々良浜(たたらはま)合戦などにおける戦功により、相次いで遠江(とおとうみ)、伊勢(いせ)、伊賀、三河の守護となる。1344年(興国5・康永3)には侍所頭人(さむらいどころとうにん)となり幕府政治の中枢となって働いた。観応(かんのう)の擾乱(じょうらん)(1349~1352)では尊氏に従い、佐々木導誉(どうよ)らとともに京都の防衛にあたった。その後幕府内の権力抗争のなかで細川清氏(きようじ)、畠山国清(はたけやまくにきよ)と対立し、足利義詮(よしあきら)をも巻き込んだ内戦に及ぼうとしたが、結局伊勢に退いた。一時南朝に降服したが、義詮に従うことを願い、許されて京都に帰った。1376年(天授2・永和2)9月10日没。

[小林一岳]

『佐藤和彦著『南北朝内乱』(『日本の歴史11』1974・小学館)』

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「仁木義長」の意味・わかりやすい解説

仁木義長
にきよしなが

[生]?
[没]天授2=永和2(1376).9.10.
南北朝時代の武将。義勝の子。官は右馬権助,のち越後守,右馬頭,右京大夫を歴任。伊賀,三河,丹後の守護を兼ね,数百ヵ所の大荘園を領知したという。正平 15=延文5 (1360) 年畠山国清らと対立して没落,分国伊勢に逃れ,翌年南朝に降下。正平 21=貞治5 (66) 年許されて室町幕府に帰参した。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「仁木義長」の解説

仁木義長 にき-よしなが

?-1376 南北朝時代の武将。
仁木頼章の弟。足利尊氏にしたがい,筑前(ちくぜん)(福岡県)多々良浜(たたらはま)で菊池武敏と戦うなど各地を転戦,伊勢(いせ),伊賀(いが),三河などの守護となる。幕府内で細川清氏,畠山国清らと対立して敗れ一時南朝にくみしたが,足利義詮(よしあきら)にくだり,ゆるされた。永和2=天授2年9月10日死去。通称は二郎四郎。

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