アメリカ合衆国と中国との国際関係。
[中嶋嶺雄]
アメリカと中国は、1844年、初めて外交的に接触し、米清(しん)間で望厦条約(ぼうかじょうやく)を調印している。アヘン戦争直後のこの条約は、香港(ホンコン)島のイギリス領有を結果として招いた英中間の南京(ナンキン)条約(1842)と同じ性格の不平等条約ではあったが、これを端緒とする米中関係は、以後100年近く、相互の人的交流と好感情という点において、きわめて摩擦の少ない調和した国際関係であった。中国側からすれば、アメリカ人(その多くは宣教師)は、アヘン吸飲を中国人に押し付けたイギリス人とは異なって、例外的に好感情を抱きうる「洋鬼子(ヤンクエイツ)」であったし、アメリカのアジア政策の基調には、中国文明に対する畏敬(いけい)の念が潜在してきたのであった。
19世紀末のジョン・ヘイ国務長官による周知の門戸開放政策にしても、列強諸国のように中国の領土的分割を直接企図したものではなく、中国領土の保全と機会均等を唱えたものであった。やがて20世紀に入ると多くのアメリカ人宣教師が中国を訪れ、そこに大学や病院をはじめとするさまざまな文化・公共施設を提供するとともに、農村奥地にも分け入って布教活動と同時に多くの社会奉仕活動を続けたのであった。この一点をとってみても、日本の対中国態度とは大きく異なっていたといわなければならない。
[中嶋嶺雄]
日本の中国侵略を抗日民族統一戦線の結成によって打ち砕いた中国では、1945年8~10月にアメリカの仲介で国民党の蒋介石(しょうかいせき/チヤンチエシー)と共産党の毛沢東(もうたくとう/マオツォートン)との重慶(じゅうけい/チョンチン)交渉が行われたが、結局、国共は分裂し、早くも46年夏ごろから国共内戦が再発した。そうしたなかで、アメリカはいち早く「国共調停」に名を借りた対華政策を打ち出していった。毛沢東らの中国共産党は、このアメリカの対華政策に対して、第二次世界大戦中の援蒋政策(中国共産党と対立していた蒋介石政権支援の政策)に連なる危険をみいだしていたことはいうまでもない。
だが、アメリカに対するこのような警戒にもかかわらず、アメリカとともに連合国の一員であった中国では、中国共産党の対米認識でさえも、当時はまだ全面的に悪化していたわけではなかった。たとえば毛沢東自身、1944年8月に延安(えんあん/イエンアン)を訪れた米軍事視察団に対して、「アメリカは単に中国の経済開発を援助するのにもっともふさわしい国というだけではなく、アメリカは中国と完全に提携していける唯一の国でもある」と語っている。1945年4月の中国共産党七全大会の政治報告でも毛沢東は、「われわれは米英両大国、とくにアメリカが日本侵略者に反対する共同の事業において果たした偉大な努力、および両国政府と両国人民の中国に対する同情と援助は感謝に値するものと考える」(毛沢東「連合政府について」。なおこの発言部分は後の『毛沢東選集』第3巻への収録に際して削除された)と述べていた。そして一貫して援蒋政策の推進者であったパトリック・ハーレー米大使の「連合政府計画」についても、45年7月の時点では、まだ留保的な発言を行っていた。しかも、45年12月にモスクワで開催された米英ソ三国外相会議が、中国問題について、「中国の内政に干渉しない政策を堅持する」旨の協定を結んだことは、中国共産党の対米観をかなり緩和させたのであった。
しかし、ここにみたような中国共産党側の対米認識もまもなく変化する。タカ派のハーレー大使にかわり、ハト派と目されるマーシャル元帥がトルーマン大統領特使として中国を訪れ、1946年1月の国共停戦協定を仲介したのに続き、46年前半にはいわゆるマーシャル「国共調停」工作が積極的に行われたが、それは結局失敗に帰し、中国共産党の反米路線は徐々に明確化していった。46年6月、毛沢東はアメリカの対華軍事援助に関する声明を発表して強硬な対米抗議を行い、一方、アメリカ側も結局、激化する国共内戦に対しては、国民党側に膨大な軍事援助を行うことになっていった。
しかし、ここで注目されることは、当時アメリカ国内においても、その対華政策については論争が続いており、対華政策における一種の分裂と二重構造が存在したことであった。とくに中国を実地に視察した特使や国務省の外交官たちの多くは、援蒋政策の必要を認めつつも、国民党の腐敗と無能ぶりに驚き、アメリカの対華政策の矛盾と問題点を感じ取っていた。
こうした状況のなかで、1949年8月5日にアメリカ国務省が発表した『中国白書』The China White Paperは、まさに画期的な歴史的意義をもつものであった。『中国白書』は1844年の望厦条約から書き起こし、とくに1944年から49年までの5年間の対華政策のすべての問題を、膨大な量の外交機密文書や公表資料とともに編纂(へんさん)した文書であったが、それはいわば近100年来の米中関係史の総括であり、当面のアメリカの失敗についての「自己批判」と「弁解」の書でもあった。白書を大統領に提出するにあたって、アチソン国務長官は、「アメリカに頼って戦争に勝ち、自らの国内的優位を保つことのみを願っていた」と蒋介石政権を厳しく評価し、「中国における内戦の忌まわしい結果は、アメリカ政府の統制の範囲を超えていた」と述べて、アメリカの対華政策の誤りを認めたのであった。
そして、中華人民共和国の成立、蒋介石政府の台湾移転という歴史の転換をアメリカが目撃した直後の1950年1月には、大統領トルーマンが声明を発し、「アメリカ政府は、中国の内紛にアメリカを巻き込むような道を歩むつもりはない。同様にまたアメリカ政府は、台湾の中国軍隊に軍事援助や勧告を与えるつもりはない」と述べ、同時に「台湾は中国の一部であり、その帰属は中国が決定すべきである」と言明したのである。つまりアメリカは、すでにヨーロッパを舞台にして展開されていた米ソ冷戦という深刻な現実のなかで、アジアについてはできるだけ問題を少なくしようと考えていたのであり、むしろ当面の敵、ソ連に対する牽制(けんせい)の意味からも、毛沢東指導下の中国共産党政権を中立化し、それと一定の関係を維持しようとしていたのであった。
一方、中国共産党の側は、こうしたアメリカの政策の「欺瞞(ぎまん)性」を絶えず指摘しており、毛沢東も1949年には、一連の論文でアメリカへの厳しい批判と警告を発してはいた。しかし、すでにみたように、第二次世界大戦末期以来の一時期、中国共産党の側からも対米関係緩和への態度がみられたことに続いて、1945年1月、毛沢東と周恩来は、延安に滞在中の米軍軍事視察団を通じて大統領ルーズベルトあての秘密書簡を送り、訪米の希望を表明したことがあったことも、今日、明らかにされている。
1973年1月、米上院外交委員会(フルブライト委員長)は、1949年から50年にかけての米中関係の調査研究報告を公表したが、それによると、トルーマン政権は当時、あと一歩のところで中国を承認するはずだったとの結論が下されている。しかも中国共産党側もこうしたアメリカの出方に関心を払い、49年5~6月、当時南京に駐在していたスチュアート大使と同大使の燕京(えんきょう)大学教授時代の教え子、黄華(こうか/ホワンホワ)(中国共産党軍事管制委員会外事処長、後の中国外相)との秘密交渉が行われていたのであった。もっとも、このときの米中交渉はアチソン国務長官の指示によって最後的に拒否され、まったく同時期に毛沢東も結局は「向ソ一辺倒」宣言を発して最終的にアメリカから離反していったのであるが、それらの事実は戦後米中関係史におけるきわめて意味深い歴史の行き違いだったのである。
[中嶋嶺雄]
これまでにみたような曲折ののちに、中国側は1949年7月1日、毛沢東が有名な論文「人民民主主義独裁について」のなかで、「向ソ一辺倒」を高らかに宣言し、以後徹底的に親ソ路線をとってソ連に賭(か)けたのであった。やがて翌50年2月、中ソ友好同盟相互援助条約が締結されるに及んで、アメリカ側も結局、表向き喧伝(けんでん)された「中ソ友好と一枚岩の団結」の神話にとらわれ、中ソ友好同盟相互援助条約の締結は「中国の喪失」に次ぐ「中国チトー化の喪失」だと断じ、やがて朝鮮戦争からベトナム戦争に至る、周知の米中対決の構造を形成していったのであった。
すでに東西冷戦のなかで、1949年8月のソ連の原爆実験成功によって「原爆独占の喪失」を余儀なくされたアメリカは、ここに49年10月の中華人民共和国の出現に伴う「中国の喪失」、50年2月の中ソ友好同盟相互援助条約の締結にみられた「中国チトー化の喪失」という「三つの喪失」に直面して、そのアジア政策の根本的な再編にとりかかり、従来ヨーロッパに局限していた「封じ込め政策」をアジアにおいても適用しようと意図したのである。50年4月の国家安全保障会議文書「NSC―68」は、「中国チトー化」への期待に基づく中ソ離間策から、反共グローバリズムの一環としての「中国封じ込め政策」への政策転換を物語っていたが、同時にアメリカ国内ではマッカーシズムが台頭し、中国共産党に理解を示す国務省の「スティルウェル・グループ」やリベラルな中国学者が「容共派」として職を追われていった。そうしたなかで1950年6月、朝鮮戦争が勃発(ぼっぱつ)、38度線を越えて北朝鮮軍が急激に南下してきたことは、アメリカのアジア政策、中国政策を最後的に転換させることになった。つい半年前に提起された「トルーマン声明」の精神は完全に捨て去られ、急遽(きゅうきょ)、台湾の蒋介石政権支援に再転換し、第7艦隊を台湾海峡に進駐させ、ついでアラスカ、アリューシャンから、日本、韓国、沖縄、台湾、フィリピンに及ぶ、いわゆる反共防衛線を形成したのである。
一方、中国は1950年10月、鴨緑江(おうりょくこう)を越えて人民志願軍を北朝鮮に派遣すると同時に、抗米援朝と台湾解放をスローガンにした全国的な反米闘争を展開していく。
ここに、1971年7月のドラマチックな米中接近の幕開きに至るまで、米中対決の原型が完全に形づくられたのであった。
ところで、周知のようにヨーロッパでは、1947年3月の「トルーマン・ドクトリン」、同年6月のマーシャル・プランから49年4月の北大西洋条約機構(NATO(ナトー))結成に至って、対ソ封じ込め体制がすでに完成しており、一方、スターリン指導下のソ連は、すでに47年10月にコミンフォルムを結成することによって、やがて55年5月のワルシャワ条約機構の形成に至る東西冷戦体制を構築していった。
ヨーロッパの急テンポな動きに比して、1940年代後半のアジア情勢はまだまだ未定形であったが、中ソ同盟の確立と朝鮮半島の熱戦は、その停戦後もアジアの冷戦構造を規定する決定的な意味をもったのであった。
こうしたなかでアメリカの冷戦政策は、かの「ダレス外交」に象徴されるように、共産主義の撲滅という「反共十字軍」の思想を背景にして展開され、そのようなイデオロギー的使命感に支えられた世界政策として展開されていった。この場合、アジアにおいては「中国封じ込め政策」がその最大の政策目標になったことはいうまでもない。1958年夏の台湾海峡危機は、米中対決の重大なピークでもあった。
中国の側は、アメリカ帝国主義の打倒を対外政策の最優先順位に置き、やがてベトナム戦争に直面した1960年代には、いわゆる「中間地帯論」によって、アジア、アフリカ、ラテンアメリカ地域の民族解放闘争を主軸とする反米統一戦線の形成を主導し、ニクソン訪中が決定するほぼ1年前、70年5月の毛沢東声明「全世界の人民は、団結してアメリカ侵略者とそのあらゆる手先を打ち負かそう」に至るまで、明確な対米対決路線を打ち出していたのである。
もとより、この間、1955年8月にジュネーブで第1回米中大使級会談が開かれて以来、この米中会談は70年2月まで計136回にわたって断続的に開かれてきた。そこには米中対決の過程で、全面戦争への危険を相互に抑止しようとする「理性」と相互の畏敬の念が存在していたことも否めないところであり、一定の外交チャンネルが細々と脈打ってきてはいたのであった。この米中大使級会談の継続は、やがて69年7月の「グアム・ドクトリン」によって、アメリカの中国政策、アジア政策が大きく転換したのち、それを米中接近へと導いてゆくうえでやはり重要な意味をもったのである。
[中嶋嶺雄]
1971年7月の米大統領ニクソン訪中決定は、翌72年2月の米中首脳会談として実を結んだ。この劇的なハプニングの背景には、中国をこれ以上国際社会から閉め出しておくことの理不尽を考え直そうとする世界的な潮流があり、ベトナム戦争によってアジアでの敗北を身をもって体験しつつあったアメリカが、中ソ対立に悩む中国との共存を真剣に求め始めたという、戦略的な変化があったことはいうまでもない。
こうして、1950年代が米ソ冷戦時代、60年代が米ソ共存と多元化時代であったとすれば、まさに70年代は、米中共存と国際政治の多極化の時代になるであろうとの展望がいよいよ現実化し始めたのである。ニクソン‐キッシンジャー路線が、こうした世界的潮流をかなり読み込んでスタートしたものであることは、1969年1月のニクソン大統領就任演説と、就任直後の記者会見ですでに暗示されていた。
ここに「グアム・ドクトリン」(1969年7月)が出された背景と理由があったのであり、しかもこの「グアム・ドクトリン」以後、ニクソン政権は、中国渡航制限緩和、中国物産品購入制限緩和、対中国禁輸の一部緩和、第7艦隊の台湾海峡常時パトロール廃止など、早くも69年下半期には次々と対中関係改善への「静かな外交」を展開し、こうした経緯ののちに70年1月、米中大使級会談がワルシャワで再開されたのであった。同年4月末のアメリカ軍のカンボジア進攻作戦によって米中大使級会談はふたたび中断したが、アメリカは、同年3月に中国への旅行制限の緩和をさらに拡大しており、やがて翌71年3月の旅行制限全面撤廃に至って、同年4月の「米中ピンポン外交」が可能になる背景がすでにつくられていたのであった。同年6月には対中貿易制限のさらに大幅な緩和が実施された。こうして対中関係改善へのアメリカ側のシグナルは1969年後半以来、相次いで発せられていたのであった。
さらに米中接近の背景として無視できないのは、アメリカの膝下(しっか)の国連の場における中国代表権問題が、1970年秋のカナダの中国承認以来急ピッチで変化し始め、中国の、中華人民共和国としての国連への復帰の可能性が著しく高まってきていたことである。周知のように、71年10月の国連総会でのアルバニア決議案可決によって、ついに国連への中国の参加が決したのであった。
一方、1960年代後半の文化大革命の混乱と激動をいちおう収拾した中国の側に関しては、69年夏の中ソ国境衝突による中ソ関係の深刻な危機以来、総理周恩来のリーダーシップのもとで対米接近への政策転換が内部的に進んでいったことをみるべきであろう。71年9月の衝撃的な林彪(りんぴょう)異変による軍の指導権の後退は、単に内政上の角逐にとどまらず、米中接近への深刻な代償としての意味をもっていたことが明らかになっている。こうして中国自身も、大統領ニクソン招請という衝撃的なドラマの一方の演出者であったのであり、アジアからの「アメリカ」の撤退が本格化することを読み取った中国自身の国家戦略も、米中接近を選ばせたのであった。
ところで、米中接近のドラマにおいて、米中双方が、台湾問題の解決を大きな焦点にしてきたことはいうまでもない。そして1972年2月のニクソン訪中による米中共同声明(上海(シャンハイ)コミュニケ)が明白に示すように、この問題については米中双方ともかなり慎重であり、長い時間をかけて問題を解決しようとしていたことが明らかであった。中国は、在台湾米軍の即時撤退や米華防衛相互援助条約の即時廃棄を要求しなかったし、アメリカ側は、中華人民共和国が中国の唯一の合法政府であるとする中国側の原則的な前提からすれば、それとは論理的に明らかに矛盾する「一つの中国、だがすぐにではなく」One China but not nowという政策をついに譲らなかったのである。こうしてアメリカは、ともかくも当面は「古き友人たち」を完全に見捨てることなく、実質的に米中間の懸案の解決へと動くことになり、やがて73年2月には米中双方が相互に連絡事務所を設置することで合意した。
米中関係のこのような現実主義的な進展は、「中ソ冷戦」時代のアジア情勢に絡む対ソ関係への考慮が米中双方、とくに中国側に働いていたことはいうまでもなく、米中接近のプロセスは当時の中国がソ連の脅威をいかに深刻に感じていたかを如実に示したのであった。
このような状況のなかで、アメリカの世界戦略は、1975年12月のフォード大統領によるいわゆる「新太平洋ドクトリン」に明白に示し出されたように、ヨーロッパ・大西洋地域に関しては、米ソ間のデタント戦略を行使しつつ、そうした戦略の優位を確保するためにも、アジア・太平洋地域に関しては、米・日・中の「太平洋横断的連携(トランス・パシフィック・コアリション)」を強化しようとする二元的な世界戦略へと転じたのであり、この戦略に中国が応じたことによって、ここに国際的な対ソ戦略体制としての反「覇権」連合は明確な輪郭を形づくったのであった。
米中接近の当然の帰結として、米中両国は1979年1月1日に国交を樹立し、アジアに残された戦後の重大な外交懸案は、ここに至って一挙に決着することになった。米大統領カーターは、78年12月、米中国交樹立に際しての声明のなかで、「過去数十年間、米中間は疎遠な間柄だったが、それ以前はアメリカ人と中国人は友情の長い歴史をもっていた。われわれはこの過去の絆(きずな)の一部をすでに再構築し始めていた。いまや、急速に発展している両国関係は、外交関係の樹立を可能にする骨組みを必要とするに至ったのである」と述べていた。米中国交の樹立は、こうした米中関係史の画期であったばかりか、第二次世界大戦後のアジアにおける国際秩序を規定した、いわゆるヤルタ・ポツダム体制の終焉(しゅうえん)をも物語っていた。
米中国交直後の1979年1月下旬、鄧小平(とうしょうへい/トンシヤオピン)訪米が実現し、米中関係はさらに緊密化しようとしたが、81年初頭の米レーガン政権の出現は、大統領レーガンとその側近が本来「親台湾」的性格をもっていたこともあって、アメリカ議会が米中国交樹立の代案として79年3月に圧倒的多数で可決した「台湾関係法」に基づく台湾への武器輸出問題をめぐり、中国側は一時、レーガン政権の対中政策にかなりのいらだちをみせた。しかし対ソ戦略上、中国への武器供与や軍事援助によって中国を対ソ「対抗力(カウンター・ウェイト)」に育成しようという、いわゆる「チャイナ・カード」政策は、アメリカの伝統的な対中政策でもあり、レーガン政権はその方向をより強く目ざすこととなった。だが、中国側はアメリカのそのような戦略にはのろうとしなかった。このことは84年4月の大統領レーガン訪中時にも明白であった。その背景には、中国側がすでに対ソ認識を大きく転換し、中ソ関係の改善が著しく進んでいるという現実があった。もとより中国側は、レーガン訪中時に実現した米中原子力協力協定の締結に示されるように、アメリカの軍事技術や先端技術を導入したい意向をもっていたが、他方ではアメリカのSDI(戦略防衛構想)を明白に拒否するなど、米中関係はいわば同床異夢の国際関係であることを示していた。
[中嶋嶺雄]
さらに米中間には中国の人権問題やチベット問題、そして台湾問題などをめぐってしばしば違和が生じ、血の日曜日となった1989年6月4日の第二次天安門事件以降、アメリカ側は対中国制裁措置をとり、中国当局の民主化・人権抑圧を強く非難するとともに、対中国最恵国待遇(MFN)にも条件を付した。92年9月には大統領G・H・W・ブッシュがF‐16戦闘機150機を台湾に売却すると発表、天安門事件以降の中国の軍事力増強や知的財産権侵害に対する米議会や世論の目も厳しい。
そうしたなかで1995年6月、台湾の李登輝(りとうき/リートンホイ)総統の訪米(母校コーネル大学訪問)が実現し米中関係がさらに冷却化した。次いで96年3月の台湾総統選挙への中国側の軍事威嚇に対してアメリカ側は空母2隻を派遣して台湾海峡の平和維持に決然たる態度を示した。一方、中国側はアメリカ側のこれら一連の政策に反発するとともにソ連崩壊後のアメリカの「単独政権」を警戒しており、こうして米中関係は一種の「新冷戦」の状況にあるといえよう。この間、米中経済関係は、米中貿易の急速な拡大とともに緊密化しており、中国市場へのアメリカ・ビジネス界の期待も大きいが、97年の江沢民(こうたくみん/チアンツォーミン)・中国主席の12年ぶりの公式訪米にもかかわらず米大統領クリントンの訪中は第1期4年間のうちについに実現せず、第2期98年なかばになってようやく実現した。大統領クリントンは中国で台湾問題に触れて「二つの中国を認めない」「台湾の独立を支持しない」「台湾の国際機関への参加を支持しない」といった「三つのノー」を口頭で表明したが、米中間のコミュニケは発表されなかった。また、「日米安保のための新しいガイドライン」に基づく周辺事態法の成立を、日米安保の対象地域に台湾が含まれることへの懸念、日本が国際紛争など異常な事態に即応できる体制を整えつつあることから、世界政治におけるアメリカの一極支配の表れであると厳しい態度をとっている。米中両国の間には大統領クリントンと国家主席江沢民の相互訪問、朱鎔基首相の訪米といった首脳同士の交流があるにもかかわらず、米国内での、中国の人権抑圧、民主党への献金、エネルギー庁の秘密資料スパイ問題などさまざまな疑惑追及に中国政府は不快感を募らせてきた。その最中の1999年5月に、国連決議を経ずに行われたNATO軍のコソボ紛争への介入と空爆によって、在ユーゴスラビア(現セルビア)中国大使館が爆撃を受け、死者3人を含む多数の被害を受けたことに米中関係は一挙に緊張したものとなった。
しかし、2001年11月正式に承認された世界貿易機関(WTO)加盟を受け、改革開放路線のもと国内経済の失速の立て直しを図る中国と、食糧危機に対する人道的援助と絡めて北朝鮮の核開発に対応したいとするアメリカ側の思惑が複雑に交錯しつつ事態は推移している。いずれにしても米中関係が国際政治の重要なテーマであり続けることに変わりはないであろう。
[中嶋嶺雄]
『入江昭著『米中関係――その歴史的展開』(1971・サイマル出版会)』▽『中嶋嶺雄著『中ソ対立と現代――戦後アジアの再考察』(1978・中央公論社)』▽『中嶋嶺雄著『新冷戦の時代』(1980・TBSブリタニカ)』▽『フランソワ・ジョワイヨー著、中嶋嶺雄・渡邊啓貴訳『中国の外交』(1995・白水社)』▽『中嶋嶺雄著『中国――歴史・社会・国際関係』(中公新書)』▽『中嶋嶺雄著『国際関係論――同時代史への羅針盤』(中公新書)』