中国の共産党と国民党との内戦。両党は1924年から第1次国共合作として国内の軍閥に共同で対抗したが、後に対立。37年の日中戦争開戦により第2次国共合作が成立し、共産党軍は国民党軍に「八路軍」として組み込まれた。45年の日本敗戦を機に再び対立し、46年6月に内戦が本格化。満州を制圧した共産党軍が徐々に優勢となり49年10月、共産党は中華人民共和国の建国を宣言。国民党の中華民国政府は台湾に逃れた。
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中国革命の段階で中国国民党の軍隊と中国共産党の軍隊(紅軍)の間で戦われた国内戦争。中国の公式な見解では、中国革命は、1921年の中国共産党成立から24年の第一次国共合作を経て、27年の国共分裂に至る時期を第一次国内革命戦争の時期、27年から37年の第二次国共合作による抗日民族統一戦線形成までの時期を第二次革命戦争の時期、46年の国共再分裂から49年の中華人民共和国成立までを第三次国内革命戦争の時期という。したがって、27年4月の上海(シャンハイ)クーデター以降、北伐途上の国民革命軍の性格が一変し、蒋介石(しょうかいせき/チヤンチエシー)軍による反共攻撃が、中国共産党根拠地への包囲攻撃として行われ、紅軍が反包囲闘争を展開するという37年まで10年間の国内戦争も、国共内戦ということができるが、一般には、第二次世界大戦の終結による抗日戦争の勝利ののち、46年から始まった人民解放戦争をさす場合が多い。
第二次大戦後、国民党政府に大きな影響力をもつようになったアメリカの仲介で、国共両党は1945年10月10日、蒋介石と毛沢東(もうたくとう/マオツォートン)との「重慶(じゅうけい)交渉」を基礎に内戦を避けるための双十協定を発表、46年1月には停戦協定が成立した。しかし、国民党軍の解放区攻撃によって同年7月以降はふたたび内戦となり、47年9月、人民解放軍は総反攻を宣言。遼瀋(りょうしん)戦役・淮海(わいかい)戦役・平津(へいしん)戦役という「三大戦役」を経て国民党軍は総敗退し、台湾に逃れていった。人民解放軍は解放区での土地改革をも行いつつ中国大陸の解放に成功、49年10月1日、中華人民共和国が成立した。
[中嶋嶺雄]
『中嶋嶺雄編『中国現代史――壮大なる歴史のドラマ』(1981・有斐閣選書)』▽『池田誠著『中国現代政治史』(1962・法律文化社)』▽『宇野重昭著『中国共産党史序説』上下(1972、73・NHKブックス)』
中華人民共和国の成立をもたらした1946年夏から49年にかけての中国共産党と中国国民党の武力対決。日本敗戦後,全国統一問題で焦点となったのは共産党の支配領域と軍隊をいかにして国民政府に統合するかであった。46年1月に開かれた各党派による政治協商会議ではこの問題は解決されず,国共両党の利害対立は結局武力による政権獲得をめざす内戦に発展した。本格的内戦は46年6月,国民政府軍による華中の共産党地区への攻撃で始まった。当初国民政府軍はアメリカの援助もあって戦線を拡大しつつ攻勢に出,翌年3月には共産党中央があった延安を占領した。しかし47年夏に共産党軍が東北で軍事的主導権を握ると,戦局はしだいに共産党に有利となった。48年9月以降共産党軍は急速に東北,華北を占領し,49年1月には北京無血入城を果たした。そして10月に北京で中華人民共和国の成立が宣言されるに至る。内戦に敗れた国民党は台湾に逃れ,同年12月国民政府の台北移転を決定した。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
…しかも,彼らはその反共主義から民主的愛国運動を藍衣社などの特務組織を使ってファッショ的に弾圧したばかりでなく,蔣・宋・孔・陳の四大家族を頂点とする収奪の体系をつくりあげたため,人民の支持を失っていったのである。抗日戦争
[国共内戦]
45年8月,日本は連合国に降伏し,中国は抗日戦に勝利した。降伏調印式の翌日の9月3日,全国各地で連合国共通の戦勝祝賀式典がとりおこなわれた。…
※「国共内戦」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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