米納津村(読み)よのうづむら

日本歴史地名大系 「米納津村」の解説

米納津村
よのうづむら

[現在地名]吉田町米納津

雀森すずめもり村の西に接する。応永一三年(一四〇六)一一月二〇日の上杉常越(房方)寄進状(等持院文書)に「米宇津」とみえ、吉田保とともに守護房方より京都等持とうじ院に寄進された。延徳二年(一四九〇)閏八月五日等持院雑掌は、「吉田・米宇津」の代官職の契約期間が過ぎたので返却を命令して欲しいと幕府に訴え、認められている(「伺事記録」尊経閣文庫蔵)。元和四年(一六一八)長岡藩知行目録は高九六四石余。寛永一一年(一六三四)与板藩の分封に際し、蒲原一四ヵ村中の一村に含まれ、高一千一五四石。寛文四年(一六六四)の与板藩朱印状(寛文朱印留)にも村名があげられている。元禄一五年(一七〇二)幕府領、翌一六年長岡藩領となる。


米納津村
よのつむら

[現在地名]川副町大字福富ふくとみ字米納津

南里なんり村の東に位置する。米納津は、南里(現川副町)上飯盛かみいさがい(現佐賀市)下古賀しもこが(現小城おぎ芦刈あしかり町)などを結ぶ、一三〇〇年頃の海岸線にあたり、また、この地域における開墾から干拓へ移行する漸移線(標高三メートル辺りの線)でもある。米納津の名は、かつて河港であったことによるとみられる。

中世には河副庄(佐賀市の→河副本庄に含まれた地で、承元二年(一二〇八)の僧蓮栄田地譲状(高城寺文書)に次のようにみえる。

<資料は省略されています>

これは、当時鎌倉の極楽ごくらく寺の免田であった米津(米納津)の土地一町を田所宗実に譲り渡すという内容である。肥前国守護北条為時の正応元年(一二八八)高城寺(現大和町)への寺領寄進状(同文書)にも「米津」また「米津土居」とみえる。


米納津村
よのづむら

[現在地名]三国町米納津

九頭竜くずりゆう川下流西方にあり、黒目くろめ村の南西に位置する。西には三里浜さんりばま砂丘が広がる。天正三年(一五七五)一〇月一八日付の柴田勝定判物(称名寺文書)に「米納津」が記されている。慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図では「三宅之郷」に含まれていた。正保郷帳では総石高九三・九石(すべて田方)であったが、貞享四年(一六八七)の検地で六五・三二石の新田高が加えられ(三国町郷土資料館保管小島家文書)、元禄郷帳以降は一五九・二二石となる。貞享三年福井藩領から幕府領となるが、文政元年(一八一八)から同三年までの一時期福井藩領にもどっている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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