日本歴史地名大系 「粟田神社」の解説 粟田神社あわたじんじや 京都市:東山区粟田口村鍛冶粟田神社[現在地名]東山区粟田口鍛冶町華頂(かちよう)山北西の山腹に鎮座。主祭神は素戔嗚(すさのお)命。江戸時代の粟田口(あわたぐち)村の産土神。社殿は北面し、境内末社に内外宮・春日社・八幡社・天満宮・日吉社・稲荷社・恵比須社などがある。粟田神社の名は近代の神仏分離以後の称呼で、それ以前は祭神を牛頭天王とし、別当を歓喜(かんき)院とよんで本地仏薬師如来を安置、感神(かんじん)院新(しん)宮または粟田天王社の称で通っていた。参道は中之(なかの)町に属し、天王(てんのう)の辻子と俗称する。「京都御役所向大概覚書」には「粟田口天王八大王子」とみえ、氏子の範囲を「南西 粟田口弐拾五町境内限、東 山科領九躰町迄、北 南禅寺内門前南側限、南 知恩院古門前石橋町北側限」とする。この氏子圏は今日に至るも変更がなく、かつての粟田口村の集落分布を考えるうえで参考となる。社伝によれば、永久年中(一一一三―一八)天台座主東陽坊忠尋の創始とし、応仁の乱の兵火に焼かれたが、室町将軍足利義尹の産土神との理由により、幕府は吉田兼倶に命じて明応九年(一五〇〇)に神殿を再興、あらためて勧請をみたという。その後、天正七年(一五七九)九月に再建。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by