七軒町(読み)しちけんちよう

日本歴史地名大系 「七軒町」の解説

七軒町
しちけんちよう

[現在地名]熊本市子飼本こかいほん町・黒髪くろかみ二丁目

子飼の立田たつだ(現子飼橋交差点)からの大津おおづ往還北側、東と北は坪井つぼい村、南西は薬園やくえん町、西北は坪井村、南は小幡おばた町に接する。北は坪井村との境界を走る小松原こまつばら通で、南は立田口から北東方向に入り立田山に至る道、西は久本きゆうほん寺の東側道路が北に延び、三年坂さんねんざか(現黒髪小学校東側通)となり、東西の小松原通と結び付く。江戸時代は武家屋敷のため町名をもたず、明治一三年(一八八〇)の郡区改正により七軒町と名付けられた。その時には、久本寺横丁・小松原南側・三年坂を含めて七軒町と称している。この七軒町は立田口から東北方向に入る通りである。江戸時代初期には竹部たけべ村で、寛文一二年(一六七二)二月「竹部に出屋敷出来、御侍屋敷となる」とある(熊本藩年表稿)。天和(一六八一―八四)頃には切米取屋敷が並ぶ。七軒町には小路地や袋小路が多く作られた。

天和頃にはまだ七軒町全域までは武家屋敷は作られておらず、その範囲は北は菊池往還から東に延びる土居があり、西半分は土居を限りとし、東半分は土居の線からやや北に延びるが、小松原通には達しない。


七軒町
しちけんちよう

[現在地名]水戸市ほん町一丁目

南を備前びぜん堀が流れ、東は本一町目、北はねずみ町。「新編常陸国誌」に「西側六十七間、東側三十七間、戸数二十二」とある。「水府地名考」は「この所寛永の比は、惣小間口七拾間にて、町人七人住す、故に七軒町と名付し由、西側には諸士の宅地もありしが、元禄三年小間口三拾間半六寸町家に入ると云」と記す。

旧町名を上穀かみこく町といい、寛永二年(一六二五)田町越たまちごえによって下町したまちでは下穀町(本七町目)と上穀町の二ヵ所で穀物の販売が行われ、両町には定期の穀物市が立った。


七軒町
しちけんまち

[現在地名]米沢市城南じようなん四―五丁目・本町ほんちよう一丁目

黒川くろかわ町の南西、城下南端に位置する下級家臣屋敷町。西と北は堀立ほつたて川と三の丸堀に接する。おお町からの会津街道が南北に延び、同街道に沿い東に七軒の武家屋敷、西に照陽しようよう寺・常安じようあん寺・長泉ちようせん寺などの寺院が配置される。これは城外への出入口を固める配慮からで、そのため南寺みなみてら町とも称された(米沢雑事記)。なお当町を出ると下級家臣である原方衆の居住した南原みなみはらに通じている。享保一〇年(一七二五)の城下書上によれば町の長さ一町一〇間・道幅三間・屋敷数七。


七軒町
しちけんちよう

東山区三条大橋東入四丁目

三条通(東海道)に沿って所在。北は新高倉しんたかくら通。町名は、延宝二年(一六七四)四方洛外町続之町々小名之覚(荻野家文書)に青蓮院様御領分粟田口として「七間町」とみえ、正徳四年(一七一四)洛外町続町数小名家数改帳(同文書)には、「一、弐拾六軒 同(粟田口)七軒町」とある。初めわずか七軒の民家しかなかったので七軒町と名付けられたという。


七軒町
しちけんまち

[現在地名]鶴岡市三和町みわまち

十三軒じゆうさんげん町西方から南へ入る道に沿った郭外の家中屋敷地。六十里越(櫛引街道)への出口に位置し、北部西側に蓮台れんだい院がある。初めは二百人にひやくにん町の一部で、町名は家中屋敷七軒があったことによるとされる(大泉掌故)。七間町とも記される。寛永一六年(一六三九)蓮台院境内の一部が若殿(忠当)家中の屋敷地とされ、蓮台院にはしま村の畑一反余(養海塚)が替地として与えられた。


七軒町
しちけんまち

[現在地名]出石町松枝まつがえ弘原ひろはら

ほり(現在の出石川)を挟んで上馬場かみばば町・下馬場町の西に位置し、西側を奥山おくやま川が北流する。町人町であったが武家も混住していた。端町で庄屋は博労ばくろう町の兼帯。横町は堀川に架かる板橋から西に延びる東西路の両側町で、奥山川に架かる土橋まで長さ七一間・幅二間で、幅一尺の溝が流れていた。この土橋を渡って西は弘原下ひろはらしも村。竪町は横町の中ほどから南に下る南北路の両側町で、鍛冶屋かじや村境まで長さ一〇七間・幅一間五尺(溝幅一尺)であった(文化七年城下絵図など)。宝暦一二年(一七六二)の出石領地取調書(林真一氏旧蔵文書)では公儀屋敷六・町家八二。


七軒町
しちけんまち

[現在地名]浜松市菅原町すがわらちよう

成子坂なるこざか町の西、東西に延びる東海道に沿う。東海道は当町西端で南に折れ、上新かみしん町に続く(井上氏時代城下絵図など)。延宝五年(一六七七)の浜松町村家数高間尺帳に七間町とみえ、町の長さ一町三二間、家数四三。浜松各町書上によると町並は南側一一四間・北側九七間、町幅三間。横町の長さ二八間。本役家屋敷一一、総家数七五、うち庄屋屋敷(代々除地)一・借屋六・店借三。当町は昔から伊場いば村や東鴨江ひがしかもえ村の百姓の「名職之地」(名請地)で、諸役・地子年貢は地主百姓が納め、町並役以外の役は原則としてなかった。成子坂町の番所木戸外の板塀管理、上新町境の板橋架替え・修復の人足なども伊場・東鴨江両村が出すかたちをとった。


七軒町
しちけんちよう

[現在地名]岐阜市加納大手町かのうおおてまち加納上本町かのうかみほんまち

中山道に沿う南北に延びる片側町。加納二六町の一。寛延二年(一七四九)の加納宿絵図によると、北を清水しみず川が東西に流れ、長さ八間余、幅二間三尺余の板橋を渡り、北に向かうと南広江みなみひろえ町に至る。南は加納城大手門に至り、西側の町並南端に壱町目、中ほどに町の町並が直交する。町東側は家中屋敷。貞享五年(一六八八)の間口裏行覚帳(三宅文書)によれば町の長さ五三間半、家数二三、板橋一。


七軒町
しちけんちよう

[現在地名]岡山市南中央町みなみちゆうおうちよう

外堀の南西方に位置する郭外武家屋敷町。東は尾上おのうえ町・さくら町・瀬尾せのお町・小野田おのだ町、南は小原おはら町、西は西にし川、北はかわら町・大雲寺だいうんじ町。寛永城下絵図でも武家屋敷地帯である。「吉備温故秘録」によれば当町は本町のほか東西町・裏七軒町・細堀町・西川端辺・袋町・新道などからなるという。


七軒町
しちけんちよう

東山区大和大路通七条下ル三丁目

瓦屋町かわらやまち通(大仏南門だいぶつみなみもん通)の両側に位置し、古くは北を上、南を下とした。東は大仏仁王門だいぶつにおうもん、西は南棟梁みなみとうりよう町。

寛永一四年(一六三七)洛中洛外惣町数人家数改日記(「半日閑話」所引)に「同所(大仏)七軒町」「同所七軒町北側」、延宝二年(一六七四)四方洛外町続之町々小名之覚(荻野家文書)には七間町北側・七間町南側とあり、正徳四年(一七一四)洛外町続町数小名家数改帳(同文書)には、上七軒町に一四軒、下七軒町に四軒の家数が出ている。


七軒町
しちけんちよう

[現在地名]函館市大町おおまち

明治五年(一八七二)二月に一町として公認された町で(同年「御達留」市立函館図書館蔵、「事業報告」第一編)、函館沿革図の安政三年(一八五六)図では、大町二丁目と同三丁目の境から称名しようみよう寺の門前に向かう坂(称名寺坂)の道に「称名寺坂七軒町」とみえる。明治二年箱館大町家並絵図(市立函館図書館蔵)でも大町二丁目と同三丁目の間の坂が称名寺坂あるいは七軒町坂となっている。


七軒町
しちけんちよう

中京区錦小路通大宮東入

東西に通る錦小路にしきこうじ(旧錦小路)を挟む両側町。中央を南北に黒門くろもん通が通る。

平安京の条坊では、町の南側は左京四条二坊二保四町北、北側はほぼ錦小路上に位置する。平安中期以降は錦大宮大路の東にあたる。

町名は、寛永一四年(一六三七)洛中絵図に「七間丁」とあり、以後の変化はない。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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