日本歴史地名大系 「綾瀬市」の解説 綾瀬市あやせし 面積:二二・二四平方キロ相模原台地の南部にあり、東の蓼(たで)川と中央の比留(ひる)川が東南で合流し、藤沢市に入って引地(ひきじ)川となり、西に目久尻(めくじり)川が南流する。県のほぼ中央部に位置し、市域はかつて高座(こうざ)郡に属した。北は座間(ざま)市、北から東は大和市、南は藤沢市、西は海老名(えびな)市と接する。明治一九年(一八八六)の綾瀬村風土記の「上土棚村」に「綾瀬川引地川トモ云フ」とあり、市名のもととなったと思われる。〔原始・古代〕比留川東岸の座間丘陵上に約二万数千年前の先土器遺跡から縄文時代草創期遺跡を包蔵する七文化層からなる寺尾(てらお)遺跡があり、さらに蓼川と比留川の合流点付近に上土棚(かみつちだな)遺跡・地蔵坂(じぞうざか)遺跡・本蓼川(ほんたでかわ)遺跡、目久尻川東岸に小園花畑(こぞのはなはた)遺跡の先土器遺跡がみられる。また縄文時代では目久尻川沿岸台地上に吉岡(よしおか)の道場窪(どうじようくぼ)遺跡・早川(はやかわ)の峰通(みねどおり)遺跡など、弥生時代では上土棚から深谷(ふかや)にまたがる落合(おちあい)遺跡があり、早川の大門(だいもん)・宮久保(みやくぼ)、小園の南原(みなみはら)から土師器坏・須恵器坏やその断欠が出土している。〔中世〕綾瀬村風土記は小薗(こぞの)を平治(一一五九―六〇)まで源義朝が支配したとしている。平安時代末から鎌倉時代は、「吾妻鏡」治承四年(一一八〇)八月九日条にみえる「渋谷庄司重国」をはじめとする渋谷氏が支配した。当市から藤沢市・海老名市などにまたがる渋谷(しぶや)庄・吉田(よしだ)庄はともに渋谷氏が支配し、荘内には深谷・寺尾・落合などの地名や早川・吉岡・曾司(そし)(祖師谷)の地名を名乗ったと思われる重国の孫の名が散見される。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「綾瀬市」の意味・わかりやすい解説 綾瀬〔市〕あやせ 神奈川県中部,相模原台地の中央部にある市。 1945年町制,78年市制施行。桑園地帯であったが,第2次世界大戦後は野菜栽培,畜産が行われている。近年,京浜地区の衛星都市として工業団地が建設され,加工組立て型工業が進出した。また,住宅地化も著しい。北東部にアメリカ軍の厚木飛行場がある。面積 22.14km2。人口 8万3913(2020)。 出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報 Sponserd by