早川村
はやかわむら
[現在地名]小田原市早川・早川一―三丁目
東は相模湾、西は石垣山、北に早川が流れ、南は石橋村に接する。熱海道が海岸に沿う。村西字大口にて早川より分流する車川を用水とする。
嘉保二年(一〇九五)一月一〇日の大江公仲処分目録(県史一)に「早川牧」とあり、領家職が大江公資・広経・公仲、その養子以実に相伝されている。永正一六年(一五一九)の宗瑞(伊勢長氏)箱根領注文(県史三)に「はこねりやう所々菊寿丸知行分」として「二百くわん文 はや川」、小田原衆所領役帳に幻庵「拾六貫三百文 西郡早川地」とある。「北条記」には北条氏綱が伊豆山権現参詣の帰途「早川の浦」に上陸したことが記され、すでに港のあったことがうかがわれる。
近世は小田原藩領。寛永初期の村高三七六石余、家数一〇八、うち名主一・本百姓四三・木地挽七・大工やねふき二・舟方八・わきノ者四七・鉄砲打一(小田原領西筋村々高ノ帳)。小田原藩主稲葉正則は熱海湯治の際には当村より船で赴き、熱海逗留中は当村に番所を設けて使者をとどめた(永代日記)。
早川村
はやかわむら
[現在地名]高岡市早川・宮田町
小矢部川と祖父川の合流点、長江新村の南方に位置。早川神社は「延喜式」に記載される「速川神社」とされ、村名は速川神社によるとされている(越中志徴)。天正一一年(一五八三)八月二〇日の知行方目録(水越家文書)によれば、「中郡はや川・はひろ村共」の五二〇俵所が槻尾甚助に与えられている。慶長一〇年(一六〇五)当村で一町の新開が羽広村喜十郎・横田村兵三郎に申付けられ、高一〇〇俵に付き三〇俵宛の年貢米・野銭七〇〇文の納所が命じられ、その前年の高一二三俵余、年貢米は高一〇〇俵に付き二〇俵宛、野銭三〇〇文であった(「新開等申付状」木倉氏筆写史料)。
早川村
はやかわむら
[現在地名]綾瀬市早川・綾西一丁目・同五丁目
中央を目久尻川が南流し、北は小薗村・寺尾村、東は深谷村、南は吉岡村、西は大谷村(現海老名市)に接する。中央を東西に横浜道、西境を八王子道、東南境を中原道が通る。
寛永二年(一六二五)一二月の石川春吉への知行宛行状(県史八)に「高座郡早川郷」とある。支配は天正一九年(一五九一)旗本太田・加々爪・石川(元禄二年松平)領の三給。
早川村
はやかわむら
[現在地名]塩沢町早川・一之沢・清水
三郎丸村の南。東は雲洞村・枝吉村、南は長崎村、西の登川対岸は大里村。ほぼ南北に清水道が登川と並行して通る。登川はかつては早川の呼称があったといわれ、上流の一之沢・清水までを早川郷と称していた。「新編会津風土記」でもこの両集落は枝村扱いである。長慶庵(現龍泉院)に対する寛正四年(一四六三)八月二二日の尻高亀鬼丸寄進状(龍泉院文書)には養父新三郎の菩提のため「越後国上田庄早河郷北方」ほか三〇貫文の地が寄進されている。
早川村
はやかわむら
[現在地名]早川町早川
黒桂村の西、早川左岸に位置し、集落は同川に流入する岩殿川の三角洲上に立地する。近世には早川入一八ヵ村の一。かつては東方山上に集落があったが、のちに現在地に移したと伝える(甲斐国志)。慶長古高帳に村名がみえ、高二九石余、幕府領。寛文一一年(一六七一)の検地高は九七石余、反別は畑・屋敷のみで七三町六反余(「検地帳」県立図書館蔵)。
早川村
はやかわむら
[現在地名]村上市早川
東の鍋倉山(四四八メートル)より流れる早川が南を西流し、西は日本海に面する。北は馬下村、南は吉浦村に接する。出羽へ抜ける浜通が通る。文禄(一五九二―九六)頃の瀬波郡絵図によれば「大国但馬分早河村 上」とみえ、本納二七石八斗四升・縄高四三石六斗五升三合で「此外六拾俵 塩 但壱斗四升入」、家一八軒、「吉浦ヨリ早川ヘ五里」とある。正保国絵図では高一五〇石余、村上藩領に属する。宝永六年(一七〇九)幕府領となり、幕末には会津藩預所。
早川村
はやかわむら
[現在地名]宮窪町早川
大島北端にある。大山の北麓にあたり、急傾斜の村で平地は乏しい。東は余所国村、西は田浦村(現吉海町)、南は泊村(現吉海町)に接する。北は宮窪瀬戸を隔てて大三島に相対する。
慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)の越智郡の項に「早川村 日損所、野山有、林有」とみえ、村高は三二石六斗一合である。寛永一三年(一六三六)の早川村検地帳では、田畑面積はわずか一町九反であった。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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