織田信雄(おだのぶかつ)(読み)おだのぶかつ

日本大百科全書(ニッポニカ) の解説

織田信雄(おだのぶかつ)
おだのぶかつ
(1558―1630)

安土(あづち)桃山時代の武将。「のぶお」とも読む。信長の第2子。幼名茶筅(筌)(ちゃせん)、通称三介(さんすけ)、入道して常真。1569年(永禄12)信長は伊勢(いせ)(三重県)国司北畠具教(きたばたけとものり)・具房(ともふさ)父子を攻め、信雄を具房の養子とした。75年(天正3)相続、御本所(ごほんじょ)と称し、北畠具豊(ともとよ)、のち信雄と名のる。長島一向一揆(いっこういっき)との戦闘、雑賀衆(さいかしゅう)攻めなどに参加、信長に無断で伊賀を攻め叱責(しっせき)を受けたが、81年改めて伊賀攻めに参加し三郡を得る。82年本能寺の変後、兄信忠(のぶただ)の遺領尾張(おわり)(愛知県)を領し、83年滝川一益(かずます)、織田信孝(のぶたか)の旧領を得て、尾張、伊勢5郡、伊賀3郡を領す。84年、徳川家康の援助を得て羽柴秀吉と小牧(こまき)・長久手(ながくて)などに戦うが、全般的に圧迫され、伊賀、南伊勢の割譲などをして和睦(わぼく)。小田原の陣後、徳川家旧領への転封を拒否し改易。のち秀吉の相伴衆(しょうばんしゅう)。嫡子秀雄が越前(えちぜん)(福井県)大野を領したが、関ヶ原の戦いで所領没収。信雄は関ヶ原の戦い、大坂の陣ではひそかに家康に与(くみ)し、陣後、1615年(元和1)大和(やまと)、上野(こうずけ)で5万石を与えられた。子孫出羽(でわ)天童(てんどう)藩、丹波(たんば)柏原(かいばら)藩で明治に及ぶ。1585年(天正13)権大納言(ごんだいなごん)、87年正二位内大臣。法名徳源院実厳真公。大徳寺総見院に葬る。叔父有楽(うらく)に茶を学び、茶道和歌、歌舞に巧みな風流人でもあった。

[脇田 修]


出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例