繰綿問屋(読み)くりわたどいや

改訂新版 世界大百科事典 「繰綿問屋」の意味・わかりやすい解説

繰綿問屋 (くりわたどいや)

江戸時代に全国的な商品として流通した繰綿(実綿から種子を除いた未精製の綿で,木綿織物や布団綿の原料)を扱った問屋商人。繰綿の主要産地が畿内であったため,大坂には早くから綿商人が発生していた。寛永年間(1624-44)に京橋一丁目で綿の市場が開かれ,畿内や近江産の実綿・繰綿の取引が行われたが,綿売買に関係する商人が問屋仲買小売に分化するようになり,正保年間(1644-48)に綿市問屋仲間が成立した。綿市が片原西町に移転させられた後,1666年(寛文6)に綿市問屋は大坂町奉行石丸定次の命により,三所綿市問屋と称するようになった。この問屋は生産地の綿荷主の委託を受けて綿荷の販売を行い口銭を受け取るが,農民や仲買に前貸しをするという金融機関としての役割も果たした。万治年間(1658-61)に成立した綿買次積問屋の場合は,需要地の綿商人の注文をうけて繰綿の買次輸送を行うのが主要な業務であり,とくに江戸へ送り出すことが多かった。

 綿作は寒冷地では困難であったため,繰綿は東国地方での需要が大きく,江戸を経由して西国産の繰綿が流通した。そのため江戸でも繰綿を扱う商人層が生まれたが,17世紀後半ぐらいまでは荷主と注文主との間を仲介する荷受問屋として,油・木綿・米などとともに繰綿を扱っていた。17世紀末ごろから特定商品を仕入れる専業の問屋層が成長し,享保改革の過程で商品別の問屋仲間を幕府が公認したときには,繰綿問屋拾六人組と称して諸種の書上げを提出している。ただし,木綿・呉服小間物など他商品を主要扱い品目とする問屋が繰綿を兼ねて販売することも多く,繰綿問屋仲間以外の問屋仲間からも,繰綿の仕入元や売先,扱い数量などに関する報告を出している。1724-30年(享保9-15)に大坂から江戸へ入津した主要商品の中で,繰綿は大きな数量を示しており,これを扱う問屋の人数も多かったらしい。

 1813年(文化10)に江戸で特権的な菱垣廻船積問屋仲間が設定され,冥加金上納を行うことを背景に株数が固定化されたとき,繰綿問屋仲間は総仲間65組中の第2位,1000両の冥加金額であった。仲間を構成する70人は木綿,呉服,小間物など他の問屋仲間にも所属しており,繰綿を主要な扱い商品としている店は数えるほどしかない。そのため,休株を願い出る者が続出し,天保の株仲間解散(1841)を経て51年(嘉永4)に問屋仲間が再興されたとき,解散前の問屋で再び繰綿問屋株を望む者は14人,解散後に開業した者が3人,計17人となってしまった。これは東国における綿作・綿業の展開や,製品である木綿織物の流通がさかんとなり,半製品としての繰綿需要が減退したためであった。大坂においても1840年(天保11)には化政期(1804-30)より大幅に繰綿入津が減少しており,中央市場における繰綿取引が衰退した事態がうかがえる。これは同時に繰綿問屋の衰退をも意味した。
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出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

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