腰越村(読み)こしごえむら

日本歴史地名大系 「腰越村」の解説

腰越村
こしごえむら

[現在地名]鎌倉市腰越・腰越一―五丁目・津西つにし一―二丁目・西鎌倉にしかまくら一―四丁目・七里しちりはま一丁目・七里ガ浜東しちりがはまひがし一―五丁目

七里ヶ浜海岸の東を限る小動こゆるぎ鼻西北方の神戸ごうと川河口一帯に位置する。かつて津村と一村であったため村域の交錯がはなはだしく、両村を一括すると北は手広てびろ村、東は極楽寺ごくらくじ村、西は片瀬かたせ(現藤沢市)に接し、村の南部を鎌倉への道が通過する。

「吾妻鏡」養和元年(一一八一)閏二月二七日条に、源頼朝の叔父志田義広の反乱に際して、頼朝側に討取られた義広の伴党らの首を腰越にさらしたとみえる。その後も罪人の処刑や梟首の場所として同書に散見する。また文治元年(一一八五)五月、頼朝の疑いを受けた弟の義経が鎌倉入りを許されず、しばらく「腰越駅」に逗留を余儀なくされ、その間に頼朝に対して自らの真情を訴える腰越状を書いたと伝える(「吾妻鏡」同月二四日条)ことでも有名。


腰越村
こしごえむら

[現在地名]小川町腰越

上古寺かみふるてら村の北に位置し、村の中央を蛇行しながらつき川が流れる。南西の秩父郡白石しろいし(現東秩父村)との境にそびえるかさ(八四二メートル)の小川盆地からの眺めは美しく、形状から乳首ちちくび山の別名がある。東西に川越秩父道が通り、東方の秩父郡安戸やすど(現同上)との境をなす尾根上に戦国期の山城腰越城がある。玉川たまがわ領に属した(風土記稿)。田園簿では田高一六六石余・畑高三一四石余、ほかに山銭永二〇〇文・紙舟役永五貫四〇〇文が課せられ、幕府領。元禄郷帳では高七八〇石余、国立史料館本元禄郷帳では旗本本目領とある。


腰越村
こしごえむら

[現在地名]丸子町大字腰越

依田よだ川と内村うちむら川の合流点より依田川沿いにやや上流の両岸一帯の村。東は佐久郡宇山うやま村・牛鹿うしろく村(以上現北佐久郡立科たてしな町)、西は山を隔てて東内ひがしうち村、南は長窪古町ながくぼふるまち(現長門ながと町)おき村(現武石たけし村)、北は上丸子かみまるこ村と境を接する。古くより諏訪道(現主要地方道上田―茅野ちの線)・塩田道(砂原峠越え)・佐久道(深山・陣場峠越え)などが丸子平に出る分岐点にある。依田川を挟んで北岸が本郷、南岸段丘上の集落が向井、鳥羽とば山の東の沢に深山みやまの集落がある。


腰越村
こしごえむら

[現在地名]館山市腰越

滝川たきがわ村の東、滝川中流右岸の平坦地に位置する。慶長二年(一五九七)の安房国検地高目録では高三〇〇石余(うち田一五〇石余)、同一五年の里見家分限帳によると一門の正木源七郎の給知。正保郷帳では高二七八石余(うち田一二八石余)で北条藩領。享保一二年(一七二七)の安房国村々助郷請帳(岩崎家文書)でも同藩領。天保村高帳では鶴牧藩領。天保一四年(一八四三)の忍藩領郷村高帳に村名が載り、房陽郡郷考でも武蔵忍藩領で家数五〇。


腰越村
こしごえむら

[現在地名]静岡市腰越

中河内なかごうち川の支流西河内川右岸に位置し、南は内匠たくみ村。永禄六年(一五六三)五月二六日に今川氏真が朝倉六郎右衛門尉に与えた安部西河内あべにしごうちの諸村の棟別銭を免除する判物(写、判物証文写)に一三ヵ所の一つとして「腰越」が含まれている。広域地名としての安部山あべやまに属すると思われる。領主安西外あんざいそと新田と同じ。元禄郷帳では高八石余。「駿河記」では家数三四。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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