舌辛村(読み)したからむら

日本歴史地名大系 「舌辛村」の解説

舌辛村
したからむら

[現在地名]阿寒郡阿寒旭町あさひまち一―三丁目・北新町きたしんまち一―三丁目・北町きたまち一―三丁目・新町しんまち一―二丁目・中央ちゆうおう一―四丁目・仲町なかまち一―二丁目・富士見ふじみ一―三丁目・上阿寒かみあかん上舌辛かみしたから旭町・北新町・北町・紀の丘きのおか下舌辛しもしたから東栄とうえい中阿寒なかあかん仲町西阿寒にしあかん東舌辛ひがししたから・字ニニシベツ・字仁々志別ににしべつ・字布伏内ふぶしない・字雄別横山ゆうべつよこやま鶴居つるい鶴居北つるいきたなど、釧路駒牧こままき桜田さくらだ鶴丘つるおか新野にいの山花やまはな美濃みのう

明治初年(同二年九月から同六年の間)から大正一二年(一九二三)まで存続した阿寒郡の村。阿寒郡の南部・東部を占め、北から南へ流下する阿寒川の中流域およびその西を南流する支流舌辛川流域から釧路川支流仁々志別川流域、さらに山地を越えた釧路川水系の久著呂くちよろ川・雪裡せつつり川・幌呂ほろろ川の各流域にまたがる内陸部の広い地域。近世にはクスリ場所のうち。明治初年シタカラなどを包含して村が成立。村名は初めシタカラ村、明治八年(一八七五)五月より開拓使根室支庁によって漢字の舌辛村に改められた(開拓使根室支庁布達全書)。「釧路国地誌提要」には舌辛村とあり、アイヌの戸数三・人口一七(男九・女八)。別に同書には当村南部地域をさすとみられる舌辛太したからぶと村も記され、同村はアイヌの戸数三・人口一〇(男六・女四)。同二〇年五月当村雪裡せつりに阿寒郡四ヵ村を管轄する舌辛外三ヶ村戸長役場が置かれた。同二二年阿寒川中流域から舌辛川の流域に舌辛原野、仁々志別川流域にニニシペツ原野、久著呂川流域にクチョロ原野およびクチョロ太原野、雪裡川流域で雪裡原野、幌呂川流域にホロロ原野の六原野が撰定された(状況報文)


舌辛村
したからむら

大正一二年(一九二三)から昭和一二年(一九三七)まで存続した阿寒郡の二級町村。大正一二年四月同郡舌辛村・徹別てしべつ村・蘇牛そうし村・飽別あくべつ村が合併し、二級町村制を施行して成立。旧村名を継承した四大字からなる。第一次世界大戦後、釧路土木事務所により当村から阿寒湖畔を経て網走郡津別つべつ相生あいおい(現津別町)に至る仮定県道の道路開削事業が進められ、大正一四年完成。同年七月には伊藤自動車(伊藤鉄次郎)が雄別炭礦鉄道舌辛駅から阿寒湖畔経由で相生間の木材など物資運搬のトラック運行を開始。これ以降同社はトラック輸送と併行して毎年七月―一〇月までの間、毎日一往復、旅客と物資輸送のバスを運行。昭和七年以降夏から秋にかけて一日二往復の定期バスを運行した。同九年には阿寒湖を含む大字飽別村あくべつむら域から川上かわかみ弟子屈てしかが(現弟子屈町)域にかけてが阿寒国立公園に指定された。この間、昭和五年には大字飽別村域を通る阿寒湖畔―国鉄釧網せんもう線弟子屈駅間の横断道路の難工事が完成した(阿寒町史)。大正一四年以降薪炭備林のため当村は国有未開地四八町八反の払下げを受けて貧困村民へ薪炭材を安く売渡したり、凶作対策として畑作に乳牛飼養を加える混合農業への営農指導も進めるなど村民の厚生策を行い、昭和六年からの凶作の救済事業として国からの救済古米の放出を受けて村民に配給、その量は同八年には二千八八〇石、同一〇年には一千二八〇石となった(阿寒町史)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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